花の名前

4

「―――おかえり」

 背後からの声に、足を止める。
 階段をまだ一段しか上っていないから、狭い廊下を挟んで、リビングのドアまではせいぜい1メートル位しか離れていない。
 だから、きっと、気付いてるに違いない。

「帰るんなら、実家の方がいいんじゃないのか?」
 と、シノが言っていた。間違いなく、バレる―――と。

 クリーニングしたてのスーツに、明らかに違う石鹸の香り―――もしかしたら、シノの香水の匂いが移っているかもしれない。最後に、抱き締められた時に。



 小さなベルの音で目を覚ました。

 どうも―――という声の後でドアが閉まる音。
 ボンヤリと目を開けると、バスローブを羽織ったシノが、ワゴンを押しながら歩いてくる所だった。
 窓際のテーブルの側にワゴンを止め、振り返ってこっちを見る。

「…起きたのか」
 言われて、反射的に起き上がった。呆然と辺りを見回す。
 アイボリーの品の良い壁紙。
 大きな窓から見える町並み。
 ワゴンに載っているのは朝食だろうか…バターの良い匂いがする。
 そして今寝ていたのは、適度なスプリングの―――大きなベッド…。

 そこで自分が裸な事に気が付いて、シーツを引き寄せた。
 ポスッと腿の上にバスローブが落とされる。

「入ってこいよ。それから話そう。」


 促されてもそもそとローブを羽織り、ベッドから足を下ろして立ち上がった瞬間、どろりと何かが股の内側から流れ落ちた。慌ててバスルームに駆け込む。
 バスタブに入ってシャワーで洗い流す。
 おりものがこんなに出てくるなんて、と思う。この間も思ったけど、シャワーを使わないと困るレベルだ。
 セックスをすると、みんなこうなんだろうか…とボンヤリと思いながら、頭からシャワーに打たれていると、不意にそれが止まって、目を開けると、不機嫌な顔をしたシノが立っていた。
 思わず胸元を隠しながら後ずさると、備え付けのボトルからシャンプーらしき物を手に取って髪をわしゃわしゃとかき回される。
「ちょっと…」
 止める間もなく水が落ちてきて、慌てて目を瞑る。
 水を止めたシノが、再びボトルから手に取った液体を、今度は体に擦り付けてくるから、ギョッとして逃げようとしたのに、腕を取られて抱き込まれ、体中を弄られるように洗われた…胸とか、色々、必要以上に。

 色々と気力を削がれてぐったりとしていると、バスタブから抱き上げるように連れ出され、バスローブを着せられた上で鏡の前に座らされる。
 一体何をするのかと思ったら、おもむろに髪をタオルで丁寧に拭い、ドライヤーまでかけ始めた―――不機嫌な顔のままで。

 手慣れてるな…とボンヤリと思う。
 こういうホテルに泊まるのも、多分、初めてじゃないんだろう。

「いつも、こうしてるの?」
 と聞いたら、ドライヤーのスイッチを切ったシノが、片頬を歪めて笑った。
「そうだって言ったら、妬いてくれんのか?」
 言って直ぐに視線を伏せて、ドライヤーを洗面台に置いて踵を返した。
 飯が冷めるから直ぐ出ろよ、と言って。
 それを見送って鏡に向き直った。

 いつもと変わらない顔―――そう思ったのに。

 ぽとん、と瞬きの瞬間、涙が零れ落ちた。

 なんでこんな事になったんだろう?
 ぽとぽと、ぽとぽと、俯いた膝の上に雫が落ちる。

 なんで気付かないの?―――と、言っていたカズの声が蘇る。
 もう誰にも許さないで、と。
 人聞きの悪い事を言うと、その時は思ったけど、カズはどこかで予感があったんだろうか。

 好きだよ、と言ってくれたのに。
 好き―――って、伝えたばかりだったのに。



 大丈夫、もう十分泣いた―――。
 振り向いて、カズの顔を見た。
 真っ直ぐに見つめる瞳に表情は無い。ニコッと微笑んだつもりだったけど、あまり上手くいかなかった。

「ただいま。」
 そう言った後が続かなくて、視線を伏せた。
 頰に、カズの指が触れて、ビクッと体が強張る。
「昨夜は、どこに?」
 静かな声だった。

 昨日の昼に電話をかけた。
 あの教会が大変な事になってて、シノの所に話に行ってくる―――絶対、取り戻してくるから、と。
 待ち合わせ場所は、言わなかったけれど。

「…ホテルだよ。駅前の、大きいとこ。」
 俯いたまま、唇だけで微笑む。
 ビックリしたよ、あんなとこ初めて泊まったけど、クリーニングのサービスまであるんだよ―――と告げてから、目を閉じて、息を飲み込んだ。それ以上、言えなくて。

「“シノ”と?」
 カズの声に、また体が強張った。それが返事になるとわかっていたけど。もう一度、息を飲んだ。

「―――プロポーズ、されたの。」

 そう言って、顔を上げた。
 カズが目を見開いている。今度こそ、と微笑んで見せた。
「一緒に、事務所を立ち上げようって、言われたんだ。だから―――」

「ここを、出るよ。」

 今までありがとう。
 そう言って、踵を返した。
 階段を駆け上がって、部屋のドアを閉める。

 嘘じゃなかった。でも―――
 そっと、お腹に手を当てる。


「―――賭けないか?」と、シノが言った。



 子供が出来たら、俺と結婚しよう―――と。
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