幽霊と私の年の差恋愛


「じゃあ、ここで」


「はいは〜い、行ってらっしゃい」


美波の会社の前で、二人は手を振り合う。彼女が背を向けてやがてビルの中に消えていったのを確認すると、真糸の顔からはすっと笑顔が消えた。

しとしとと降り注ぐ雨の中、真糸は傘も差さずに通勤者の行き交う街を彷徨った。




ーーーいったい自分は、何者なのだろう。




真糸の頭を支配しているのは、答えのない問いだった。



あの時、ふと気付けば美波の眠るベッドの横で佇んでいた。

時々、美波の様子を見に病院のスタッフが姿を見せる。その誰にも、自分は認識されることは無かった。


ーーーああ、僕は死んだんだ。


その時すんなりと、その事実を受け入れることができた。


ーーー自分の身体は? どうなっているんだ?


ふと疑問に思い、真糸は霊安室に行こうと思い立つ。美波の病室を抜け、恐らくそれがあるであろう地下を目指す。


ーーー……っ!? なんだ……?


目の前に見えない壁があるかのように、前へ進むことが出来なかった。何度通ろうと試行錯誤してもそれは叶わない。真糸はしかたなく、今度は上へ向かうことにした。


ーーーまただ……。


しばらく歩くと、再び前に進めなくなる。目の前に壁、否。


ーーーなんだ……? これは……後ろから、引っ張られている……?


そうだ、壁じゃない。後ろから強い力で引き寄せられている。真糸は未だ病室で眠る彼女を思い出す。


ーーー彼女から……離れられないのか?


それから真糸は、様々なことを試した。

まずは壁やドアをすり抜けてみる。何の抵抗もなくするりと通り抜けることが出来る。

では何故自分は床を歩いている? そのまま窓の外へと身体を半分すり抜けさせる。


ーーーっと……。


がくんっ、と落ちそうになる。今度はここが床であるとイメージしながら同じようにしてみる。


ーーー今度は落ちない……。ということは、自分が『歩くべき場所』だとイメージする場所に浮いている、ということか。






どん、と身体に衝撃が走り、真糸は回顧から意識を戻す。目の前に、紺色の傘が転がっている。


「チッ……っぶねぇな」


横を見ると、スーツ姿のサラリーマンがこちらを睨みつけている。その瞳は最初こそ攻撃的なものだったが、真糸と目が合った瞬間、恐怖の色に染まった。


「ひっ、ひぃっ! バケモノかよっ……!?」


そう呟き、男は雨に濡れるのも構わず傘を置き去りに走っていった。


「……? 何だか失礼な反応だね」


バケモノ? 自分がか?

真糸はやはり、自分が何者なのか分からない。しかし。


(気のせいじゃない。最近……急速に認知されることが多くなってきている……それも一日一日と確実に……それに……)


真糸を認識する瞳の全ては、必ずと言っていいほど恐怖の色に染められているのだ。


(僕は、やっぱりバケモノなのか……?)


美波の瞳にも、そう映っているのか?

その疑問は口に出せない。出してしまったら最後、誰かにそうだと告げられそうだからだ。

真糸は一人、雨の中で項垂れた。













チャイムが鳴る。美波はぼんやりと顔を上げ、向こうの壁に取り付けられた時計を見る。


「もう昼かぁ……」


何だか集中できなくて、何も捗らないままあっという間に午前が終わってしまった。パソコンではスクリーンセーバーが作動している。

これでは給料泥棒だ。


「美波、お昼行こっ」


隣のデスクの愛佳が、バッグを手に美波を誘う。


「あ、うん……」


美波も働かない頭のまま、自分のバッグを掴む。

椅子から立ち上がると、少しだけ目の前が揺らいでたたらを踏んだ。


「ちょっと、大丈夫?」


愛佳が大きな瞳をくりくりとうごかして尋ねる。美波は曖昧に笑って頷く。


(愛佳、今日も可愛いなぁ……)


愛佳の心配をよそに、美波の思考は全く関係ないところへ飛んでいた。

口には出さないが、美波は愛佳の服装を日々チェックするのが日課になっていた。

彼女のファッションは、大抵がふんわりとしたフェミニンなスタイルだ。髪も毎日しっかりと巻かれているし、アクセサリーは服に合わせて毎日違うものを付けている。

それが可愛らしい顔立ちにもマッチしていて、最高にお洒落だと思えるのだ。


「……ちょっと美波? 本当に大丈夫?」


ぼんやりとしていた意識が現実に引き戻される。こうしている間にも、貴重な昼休憩の時間は消費されていく。美波は曖昧に笑うと、社員食堂へ行くためエレベーターホールへと向かった。










社員食堂のあるフロアは、すでに多くの社員で混み合っていた。二人はウォーターサーバーから水を汲み、先に席を確保する。


「それで? 体調でも悪いわけ?」


食欲がないから水だけでいい、と席に着いた美波に、日替わり定食をトレーで運んできた愛佳が質問した。

カラリと揚がった唐揚げを見ても、今の美波には美味しそうには見えなかった。


「うーん、何か、見てるだけで胸焼けが……」


「……これから食べようとしてる人に向かってよくそんなこと言えるわね」


愛佳の言うことはもっともである。しかし、食堂に充満する様々な食べ物の匂いだけで、今の美波には気が滅入る思いだった。


「まさかとは思うけど……美波、妊娠なんて、してないわよね?」


唐揚げを頬張りながら、愛佳は遠慮がちに尋ねる。


「え……?」


一瞬、聞かれていることの意味が分からず、美波は目を瞬かせた。


「いやいや、『え?』じゃなくてさっ。元カレと……大丈夫よね?」


愛佳の含みを持たせた質問に、美波はしばし考える。


「分かんない……」


考えても、答えは出なかった。愛佳が天を仰ぐ。


「ねぇ美波、落ち着いて考えて? 元カレと別れたのって、確かゴールデンウィークに入る前だよね?」


美波はこくりと頷く。


「で? その後は? そういうことは?」


首を横に振る。


「来てる?」


頭の中にカレンダーを呼び起こす。もうあれから二ヶ月が経とうとしている。その間、真糸との同棲生活でそのことに頭を悩ませた覚えがない。


「来てない……」


再び、愛佳が天を仰いだ。


「ねぇ、美波。ヤバいって。私のごはんに付き合ってなくていいから、今すぐ薬局行ってきなよ」


「う、うん……」


愛佳にせっつかれ、美波は水を飲み干すと席を立った。









(私……あのあとどうなったんだっけ……?)


トイレの個室に引きこもり、結果が出るのを待ちながら美波は考えた。

そう、あの日も、今日のような雨模様だった。






『ごめん……別れよう』



もう付き合いきれない、そんな思いであの日、将にそう告げた。



『……はぁ?』



上半身裸のまま煙草を吸っていた将が、ややあってからそう呟いた。彼は振り返らなかったが、代わりに首に飼っている蛇のタトゥーが赤い瞳で美波を睨みつけた。



『ごめん。帰るね』



いそいそと服を身に付け、美波は将の住むアパートを後にした。本当は就職が決まった時点で別れられれば良かったのだが、ズルズルと一年以上関係を引きずってしまった。

愛情はないけれど、情はあった。



『てめぇ……殺してやるからな』



ワンルームのドアが閉まる直前に聞こえた将の声音に、美波は全身が粟立った。本気だ、そう思ったからだ。何も言葉を返さないまま、帰路を急ぐ。



『大丈夫……付けられてない……』



この四月、美波は将にバレないようこっそりと引っ越していた。新しい住まいはもちろん教えていない。完全に縁を切るためには、このくらいしなければ諦めてもらえない。そう思った。

無意識に、傘で顔を隠す。



『ちょっと』



町中で、不意に腕を掴まれた。恐怖に体が固まる。見ると、数人の男のうち一人が美波の腕を掴んでいた。

美波も会ったことのある、将の友人達だった。



『キミたちついに別れたんだってなぁ。美波ちゃん?』



『……』



何も喋らない美波に、男達はお互いの顔を合わせてにやりと笑みを作った。



『ちょっと来いよ』



『なっ……止めてよっ』



有無を言わさず路地裏に引きずり込まれる。必死に抵抗するも、男の力には叶わない。

完全に表通りからは外れ、道も暗く人通りもない。美波は焦った。



『連れてきたぜ』



男の声にはっとして前を向くと、暗闇に浮かぶ赤い瞳の蛇。



『……何する気なの』



先回りされていたーーー。ドクンドクンと、危険を察知した美波の心臓が煩く鳴る。



『決まってんだろう?』



蛇は、嗤う。



『殺すんだよ。てめぇを』











(それ、から……?)









何がどうなったかは思い出せない。無我夢中だったのだろう。美波は男達の手を振りきって、見知らぬ路地をただ走った。



『はぁっ……はぁっ……』



肩や腹が痛い。口の中には鉄の味が滲んでいる。



『ここっ……どこっ……?』



人に助けを求めたいのに、なかなか表通りに出ることは叶わない。複数人に追われ、徐々に逃げ場がなくなっていく。



『助けてっ……誰か……』



やがて美波は、とある廃ビルに差し掛かる。遠くから複数の足音が聞こえる。もう走れない。咄嗟に、進入禁止の黄色いチェーンを跨いで敷地に踏み入る。



『はぁっ……はぁっ……』



なるべく音を立てないように、錆びた鉄の階段を登っていく。やがて屋上に出ると、美波は錆び付いた手すりの隙間から地上の様子を見下ろした。



『あの女どこ行きやがった!?』



突然聞こえた声に、美波はびくりとして物音を立てそうになる。そっと身を縮こまらせて、空気に溶け込むことだけを意識する。



『あのクソ女っ! これから生きたまま埋めてやろーかと思ってんのによぉ。″マワス″だけで逃がすわけねぇだろうが。出てこいよコラァ!』



将の声だった。

美波の頭にはたくさんの疑問符が浮かんだ。そのうちに、将達の声と足音は遠ざかっていく。

ふらりと身体が傾き、濡れたコンクリートに仰向けで倒れた。

雨はいつの間にか止み、夜空の雲は晴れていた。



マワス?



すぐには漢字の変換が出来なかった。



マワス? 私は、マワサレタの?













(そう……だったっけ……?)



スマホを見ると、いつの間にか五分が経過していた。もうとっくに、『それ』の結果は出ているはずだ。美波は足元に置いていたそれに震える手を伸ばす。


(見なくちゃ……どんな結果でも……ちゃんと確かめなくちゃ……)


ドクンドクンドクン。心臓が早鐘を打つ。


(確かめて……早く愛佳にも報告しないと……)


心に思い浮かべたのは愛佳のはずなのに、その時何故か頭に浮かんだ映像で笑っていたのは、白衣に丸眼鏡をかけたアッシュの瞳だった。












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