幽霊と私の年の差恋愛



バーを後にした真糸がアパートに着いたのは、日付が変わろうとする頃だった。入口に立つ街灯が、頼りなさげに白い光を明滅させていた。

結局いくら頭を悩ませても、この事象に関する知りたい答えは出てこない。いくつも仮説を立てては、答えを証明できないまま非科学的というレッテルを貼っていく。


(思考するには材料が足りない……これではいくら考えていても時間の無駄だ……)


そう思うと、途端に考える気も失せるというものだ。しかし結局は気になって考えずにはいられない、というのを、もう幾度となく繰り返していた。

アパートの古びた外階段をゆっくりと上る。


「はぁ……」


真糸の足取りを重くする原因の一つは、アパートを出てくる前の美波とのやり取りであった。

あの時、彼女が命を絶とうとした理由を聞き、自身の身に降り掛かった理不尽に憤りを覚えた。それと同時に、やはり自分の未練は生そのものなのだということも自覚してしまった。

しかしそもそも、飛び降りようとした彼女に駆け寄って巻き込まれたのは自分にも非がある。

自殺しようとしている人間に対して、冷静で真っ当な決断を求めること自体がナンセンスだ。

それを責めるような言い方になってしまったのは、ひとえに八つ当たりと言ってもいいだろう。


「おや……?」


真糸が違和感を覚えたのは、階段を登りきった時だった。

下から見た時には分からないほど微かに、美波の部屋の扉から一筋の光が漏れていた。


(ドアが……開いているのか……?)


途端に嫌な予感が胸に渦巻いた。重かった足を、僅かに早める。

掴んだドアノブはやはり、回すことなく扉を開けることが出来てしまった。


「なんだ……これ……」


異変は、入室した時点から真糸を出迎えていた。

噎せ返るような、鉄錆に似た異臭。それは一つしかない部屋の、開け放たれたままの扉から吐き出されている。

扉の奥に、人間の足が見えた。


「……美波ちゃんっ?」


駆け寄る。

いくらも距離のない部屋の中へ、なかば転がり込む。



赤い、部屋だった。



壁も、天井も、アイボリーの寝具も、ピンクのラグも、横たわる人物によって赤く染められていた。


「美波ちゃんっ!!」


真糸は無我夢中で、彼女を掻き抱いた。


「ま……い、と……さん……」


虚ろな表情で、美波は重たげな瞼を開けた。真糸を呼ぶ声に混じり、ひゅう、と不自然な音が聞こえる。


「なんで……どうして、こんなっ……」


自分が、美波から離れたばかりにーーー……真糸は自身の取った稚拙な行動を悔やんだ。

血だまりの中に美波のスマートフォンを見つけ、真糸は119にコールする。柄にもなく、指が震えていた。


「結局、私……将に、殺され、る……運命……だったの、かな……」


美波が蚊の鳴くような声で呟いた。真糸は、首に赤い目の蛇を飼う男を思い出す。


(やはりあの時、殺しておけばっーーー)


思わず舌打ちしたくなるが、全ては後の祭り。真糸は血液をとめどなく吐き出す美波の胸部にタオルを当て、ありったけの力で圧迫した。


「真糸、さん……」


絞り出すような声で、美波が真糸を呼ぶ。そして力の入らない血濡れの手を上げ、そっと真糸の頬に添えた。


「真糸、さん……私……本当に……ごめ……なさい……」


これはなんの謝罪だろうか。恐らく意識も朧になってきた美波本人も、よく分かっていないだろう。










「私……全部……真糸、さんに……」


「美波ちゃん…?」


美波は自分でも、何を言っているのかよく分からなかった。


(ああ……これは天罰なんだ……真糸さんを殺した、私への罰……)





ーーーあの時、階段を上る足音が聞こえた。その足音は真っ直ぐ部屋の前まで移動して、やがてカチャリと、ドアノブを捻った。

真糸が帰ってきた。

そう思って、喜びに心臓が跳ねた。沈みこんでいたアイボリーの寝具からも浮上した。

しかし部屋に入ってきたのは、赤い瞳の蛇。一瞬、頭が真っ白になりーーー。


次の瞬間には、己の胸元にナイフの柄が生えているのを見た。それが力任せに抜かれ、天井にも、壁にも、血の飛沫で模様が描かれる。

死ね。

そう言い残し、蛇は静かに去った。

仰向けに寝転んだまま、美波は天井に描かれたばかりの模様を眺めていた。

痛いーーー……。

そう感じたのは最初だけで、次第に呼吸の苦しさだけが身体を支配した。必死に息を吸おうとするが、どうにも上手くは行かなかった。





『美波ちゃんっ!!』




真糸の声が聞こえ、自分がいつの間にか眠りそうになっていたことに気付く。


『ま……い、と……さん……』


片肺がやられているのか、声に妙な音が混ざった。相変わらず、息が苦しい。


(私は、何をやっているんだろう……)


ぼんやりと霞む視界に、泣きそうな顔の真糸が映りこんだ。いつも飄々としていて、何事にも余裕で、クレバーな彼。

こんな顔は、見たことがなかった。








「全部……ぜん、ぶ……」


こんな顔をさせているのが自分だと思うと、たまらなく切なかった。


「真糸さん……好き、です……」


結局、美波から出たのは、なんの脈絡もない陳腐な言葉だった。真糸の瞳に驚きが宿る。


「美波ちゃん……何でっ……」


やり切れないというような顔で、真糸は苦しげに言葉を詰まらせた。


何で、死のうとしたのか。


何で、もっと早く逃げなかったのか。


何で、自分なんかを好きになったのか。


何で、何で、何でーーー。


そんな様々な思いが、真糸の喉に蓋をしているようだった。


(真糸さんの瞳は……やっぱり綺麗だ……)


取り留めのない思考の中、美波はそんなことを考えた。

優しく透き通る湖のような、澄んだアッシュ。吸い込まれてしまいそうだ、などと、何度思ったことだろう。

彼の人生は、本当ならもっと長く続くはずだった。

死にたい自分が生き残り、生きたかった彼の命を奪った。


「私の……」


そうだ。


「私の、全部……」


こんな私で、許してくれるならーーー……。


「全部、あげますから……」




唇が、触れた。

錆びた鉄の味がした。


















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