幽霊と私の年の差恋愛


会社の最寄り駅は、飲み屋街として夕方以降に活気が増す。

時刻は八時半を回ったところ。溜まっていた仕事を終えて会社を出た頃に、真糸がこんなことを言い出した。


「ねぇ。ちょっと行きたいところがあるんだけど」


美波はきょとんとした顔で首を捻る。


「別に良いですけど……こんな時間からですか?」


周りには既に一件目の店を出て、二件目を目指して彷徨いているサラリーマンの姿もある。


「うん。ちょっとね。すぐ近くだからまぁ着いてきてよ」


真糸の言葉に、美波は素直に従って雑踏の中を歩いた。

5分ほど歩き、駅の裏手にある道を少し進んだところで、真糸は足を止めた。


「プールバー……『キスショット』?」


そこには地下へと続く細い階段があった。その上にはプレートが吊り下げられており、店名が洒落た字体で控えめに書かれている。


(プールバーって、たしかビリヤードができるバーのことだよね?)


知らなければ店があること自体に気が付かないだろうし、気付いたとしてもなかなか敷居が高い雰囲気だ。

そもそも美波はビリヤードなどほとんど経験がない。


「あはは、やっぱり入りにくいよね? だからもうちょっとポップな看板にしようって僕は提案したんだけどな〜。まぁ入ってよ。中はそんなに堅苦しい場所じゃないからさ」


そう言いながら、真糸は一人先に階段を降りていく。美波も慌ててあとに続いた。

階段の先にあった扉を開ければ、ほんのりと温かみのある照明が小さな店内を照らしていた。何とも心穏やかになる優しいジャズが心地良い。店の真ん中にはビリヤード台が一台鎮座しており、客がゲームに興じていた。その奥にある背の高い観葉植物がそっと試合を見守っていた。


「いらっしゃいませ」


バーカウンターでグラスを磨いていたバーテンダーが、こちらに気付いて挨拶をした。客が美波だけだと分かると、少し驚いたような顔をする。


(何だかすごく……驚かれているような……)


やはり一元の客が女性一人というのは珍しいのだろう。


「一番奥の席に行こうか」


耳元で真糸にそう促され、素直に奥の席へと進む。何だかデートのようで変に緊張してしまう。

背の高いバースツールに少し苦労しながら座ると、バーテンダーがニコリと微笑んでくれた。

落ち着いた渋い雰囲気の店内だが、そのバーテンダーは意外と若そうだった。ウルフカットの黒髪が似合う、柔和な顔立ちの青年だ。


「何をお作りしましょうか?」


カウンターの上に少し目を彷徨わせるも、特にメニューは提示されていない。何でも好きなものを提供してくれるということだろうか。

同期や友人とバーに行くことはあるが、一人で入る機会もなかなかないため少し緊張して手足が冷たい。

何か温まるものをと考え、美波はホットカクテルを注文することにした。


「じゃあ……ホットバタードラムを。バターとお砂糖多めでお願いできますか? あ、シナモンは抜きで」


その注文を聞いた瞬間、バーテンダーが一瞬、動きを止めた。しかしすぐに柔和な笑みに戻り、慣れた手つきでカクテルを作り始める。


「へぇ……。美波ちゃん意外だなぁ。どちらかと言うとカウの方が好きそうなのに」


横の空席に勝手に腰掛けていた真糸が、美波の注文に笑みを浮かべた。


「そうですか? カウはお腹に溜まっちゃってたくさんは飲めないので」


「え?」


ごく自然に真糸に返事をしてしまい、驚くバーテンダーの顔を見てようやく失敗に気付いた。


「ご、ごめんなさい。私、独り言を……」


(恥ずかしい……)


俯いてしまった美波に、バーテンダーはくすくすと笑みを浮かべながらグラスを差し出してくれた。

おずおずとそれを受け取ると、ラムとバターの芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。指先から伝わる熱が緊張を解していく気がした。


「……俺も同じもの、飲もうかな」


ぽつりと、バーテンダーがそう呟いた。美波が顔を上げると、彼はもう一つカクテルを作り始めていた。その顔には、どこか寂しげな影が見えた。


「ああ、すみません。このカクテル、俺の友人も好きだったんですよ」


乾杯、と告げられ、美波とバーテンダーのグラスが静かに触れ合った。一口含むと、それぞれの素材の甘さが身体に染み込んで溶けていきそうだった。

美波はそっと横に座る真糸を見る。彼はどこか懐かしむような笑みを口元に浮かべ、頬杖を付いてバーテンダーの顔をじっと見つめていた。

それは、初めて見る表情だった。


ーーーねぇ。ちょっと行きたいところがあるんだけどーーー。


ここに来る前の真糸の言葉を思い出した時、美波はハッとしたようにバーテンダーに向き直った。


「あ、あのっ」


何か考え事をしていた様子のバーテンダーは、美波の声に現実に引き戻されたようだった。すぐに笑みを浮かべて首を傾げる。


「あなたは……藤原真糸さんの、ご友人ですか?」


美波の問に、バーテンダーは少し驚いたような顔をした。


「……というと、お客さんも?」


バーテンダーの言葉に、美波は何と返していいか分からず俯いた。


(私は……真糸さんを、殺してしまったから……)


発作のように罪悪感が襲ってきて、美波は俯いたまま下唇を噛み締める。

すると突然、頭の上にひんやりとした感覚を覚えた。横を見ると、笑顔のままの真糸が美波の頭に片手を乗せていた。ぽんぽんと撫でられ、何故だか無性に泣きたい気分に襲われる。


「……真糸とは、もう十年以上付き合いのあった友人なんです。三年前に俺がこの店を始めてからも、頻繁にここへ遊びに来てくれていました」


バーテンダーの名は、桜沢春臣。この店のマスターだ。真糸とは高校時代の同級生だったそうだ。

それから春臣は、懐かしむように真糸との思い出を語ってくれた。真糸との出会いや、大学受験時のエピソード。

昔から真糸は風変わりな男であったということ。

そして天才的な頭脳の持ち主で、よく周囲の人間を驚かせていたこと。

どの思い出も、春臣の中でかけがえのない記憶として残っている。

美波は、この二人が友人以上の絆で結ばれているのだと直感した。


「すみません。俺ばかりこんなに話しちゃって。お客さんに対して失礼でしたね」


春臣の言葉に、美波は慌てて首を横に振る。


「そ、そんな事ないです! 素敵だなって、思いました……」


罪悪感とは別に、美波は素直にそう思っていた。二人はお互いに良き友人であり、パートナーだった。

今日真糸がここへ来たがったのも、自分を失った友人の事が気がかりだったからだろう。

現に真糸は今、春臣の様子を確認してどこか安心したような表情を浮かべている。

ゲームに興じていた四人の客が会計を済ませて退店し、店内には美波と春臣、そして真糸の三人となった。

「真糸はビリヤードが上手かったなぁ。計算と分析が得意だったから、全部落としちゃうんです。真糸が先攻だと、俺は一度も勝てた試しがなかった」


そう言うと、春臣はバーカウンターを出て、壁のスタンドから一本のキューを手に取る。


「良かったらワンゲームしてみませんか?」


美波は慌てて断ろうとした。ビリヤードの経験などほとんどなく、ルールも朧気にしか分からない。

しかし、断ろうとした美波を止めたのは他でもない、真糸だった。


「だーいじょうぶ! 僕に任せてよ」

にやりと自信たっぷりに微笑まれて、美波は不安を覚えつつも春臣からキューを受け取った。


「ビリヤードは得意じゃないって顔ですね。初心者にも簡単なナインボールにしましょうか」


春臣はそう言うと、規定の位置に九つの的球と、白い手玉を一つ置く。


「ブレイクショットはあなたに任せましょうか。えーっと……」


美波は自身の名前を伝える。春臣はにこりと笑って頷く。


「では美波さん。よろしくお願いしますね」


美波はおずおずと台の縁に立つ。手玉と的球は、随分離れて置かれているように見えた。


「大丈夫。僕がやるように構えて」


ふいに、真糸が美波の背後に立った。そして後ろから丸ごと抱きしめるように、そっと美波の身体に自身を重ねる。

全身を覆う冷たさに、ぞくりと震えた。それなのに、美波は今朝の給湯室での出来事を思い出し、カクテルの効果も相まって頬が火照る。


「ブリッジが安定しないね。薬指を畳んで固定して。それから人差し指はキューに掛けて中指につける。親指は広げて台につけて」


言われた通りにブリッジを組み、身を低くしてキューを構える。ちらりと春臣を見ると、少し驚いたようにじっと美波のフォームを見つめていた。


「そのまま、右腕を押し出すように振って」


すっと右腕を振る。キュー先は手玉の中心に当たり、真っ直ぐに転がって一番の的球に当たった。

しかし力が弱すぎたのか、的球は散らばらずに一つもボールを落とすことは出来なかった。


「あちゃ〜。ちょーっと優しすぎたね。こりゃあハルに初の敗北だ」


真糸は片手を額に当て、困ったような顔をしてため息を吐いてみせた。しかしその顔はどこか楽しげで、嬉しそうだった。


「すごい……」


そのあとの春臣のショットは、本当にすごかった。ビリヤード経験がほとんどない美波にも分かる。

何故なら、次に美波の番が回ってくることなく、春臣は次々と的球を落として九つすべてをポケットに沈めてしまったのだ。

九つ目の的球を落としたとき、春臣はまるではにかむように笑って美波を見た。美波は思わず小さく拍手をした。


「ふふ。手加減抜きですみません。でもあなたのそのブリッジ。それは真糸の構え方と一緒だ。真糸とやる時は、絶対手加減しないって決めてるんです」


だからあなたにも、手加減はしなかった。春臣はそう言って目を伏せた。


「何故でしょうね。あなたとのゲーム、まるで真糸とやり合っているような気持ちになりましたよ。あなたが真糸なら、俺は勝てるわけないのに」


寂しさを孕んだその声音に、美波は心臓を掴まれた気持ちになった。


「俺は……結局一度も、真糸に勝てたことは無かったな。勉強も、スポーツも、何もかも……。でもいつも二人で色々やり合って、すごく楽しかった」


「春臣さん……私……」


春臣は、最初に見た時と同じ柔和な笑みを浮かべた。そしてそっと、美波の頬に伝った涙を親指の腹で拭う。


「最初に顔を見た時はまさかと思いました。でも名前を聞いて確信しましたよ。安西美波さん。あなたは、真糸が助けた女性ですね」


その言葉に、美波は驚いて目を見開く。


「あの時、俺は真糸と一緒にいたんです。落ちそうになっているあなたに気付いて真糸が走り出し、受け止めた衝撃で倒れた真糸は頭を強く打った。あなたは真糸の身体がクッションになり、幸い一命は取り留めた」


美波は溢れ出る涙を止めることが出来ず、俯いて拳を握った。


「俺が応急処置と、通報をしました。その後、警察の取り調べであなたの名前を知った。真糸は残念でしたが、あなたが助かってくれて良かった」


彼の死が、無駄にならなくて良かった。彼の想いが、無駄にならなくて良かった。

春臣はそう言って、やはり穏やかに微笑んでくれた。


「ごめんなさいっ……」


美波はただ謝ることしか出来なかった。ぽん、と頭に温もりと冷たさを同時に感じる。

真糸の手と春臣の手が、同時に美波の頭に乗せられていた。


「自分を責めすぎないでください。真糸もそれは望んでいないはずです」


「そうよ? ていうか、この僕本人がそう言ってるんだから間違いなーい! いや〜ハルはやっぱりよく分かってるねぇ」


春臣に聞こえていないのを良いことに、胸を張ってそう宣う真糸。美波は思わず笑みを零した。



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