love*colors

 ピシピシピシ、と窓ガラスに音を立ててぶつかる雨。今夜は雨ばかりでなく風も強い。
 雨脚が強いと当然客の入りにも影響が出る。夜の営業時間が始まってすぐ何組かの客が入ったが、次第に強まって来る風雨に食事を終えると早々に店を引き上げてしまった。
 店の壁に掛けられた時計を眺めた。時刻は午後八時半過ぎ。客は誰もいない。

「雨、けっこう酷いっすね」

 今夜もシフトに入ってくれているバイトの富永が呟いた。

「ああ。今夜これから荒れるっつってたな天気予報」
「マジすか。最近、やたら荒れますよね」

 近年、世界的な異常気象。集中豪雨なんてものも今じゃそう珍しくもない。今夜は早めに店を閉めるか……などと考えていたその時、ピカッと店の中にまで青い稲光が光った。
 それと同時に「きゃあっ!」という声と共に店の格子戸が開いて、風に煽られボサボサになった髪を抑えながらなぜか涙目の常連客の青野日南子が現れた。

「ば、バス降りたら、雷鳴って……おさまるまで居てもいいですか」
「ああ。……じゃあ、少し雨宿りしてくか?」

 そう訊ねると、彼女はほっとしたように頷いた。彼女は近所に住む常連客。親父たちが店をやっていた頃から頻繁にこの店を訪れてくれている。彼女の住むマンションはここからさほど離れていないが、雷が鳴っている今、外を出歩くのはさすがに危険だ。ここで雨宿りをするのは賢明な判断だ。
 窓の外を見ると、また空が青く光った。その稲光からほんの数秒でゴロゴロと空が轟音を立てる。

「結構近いな。富永くん、とりあえず奥行ってタオル取って来て」
「あ。うぃっす!」

 返事をした富永が慌て店の奥に入って行った。

「なんかすみません……」
「いや。さすがにこの雷じゃ危ねーだろ。ついでに飯食ってくか? 特別にまかない飯サービスしてやっから」
「ええっ? いいですよっ! 勝手に押し掛けて迷惑掛けてる身なのに」
 
 日南子が両手を胸の前で振りとんでもない、と言う顔をした。

「この天気じゃ、客も見込めそうにないし。どーせ、富永くんに食わせるついでだから遠慮すんなって」
「……いいんですか?」
「もち」
「……じゃあ、後片付けだけお手伝いさせてください」

 そう言った日南子の言葉に、巽は思わずクスと笑った。
 前にもこんなことがあった。若い年頃の女の子なのだから、少し図々しいくらいに素直に甘えておけばいいものを。こういうところにその子の人柄というものが垣間見える。

   * 

 あれから小一時間。雷は少しおさまりつつあるものの、雨は変わらず激しく降り続いている。窓ガラスに激しく打ち付ける雨を眺めながら、日南子が小さく息を吐いた。

「全然止まないですね……せめてもう少し小降りになってくれると助かるんですけど」

 日南子が手にしたカップを置いた。食後に出したコーヒーもすぐに空になり、継ぎ足したコーヒーもまたカップの底に少し残るだけ。あれから誰も店を訪れることはなくラストオーダーの時間も過ぎ、つい今しがたバイトの富永をタクシーで帰したところだ。表の暖簾も下げ、あとは店の電気を落とすだけ。

「巽さん……ごめんなさい。こんな遅くまで」
「や。俺は全然構わねぇけど──、このままじゃ埒あかねぇから車で送るか?」

 彼女のマンションまでは徒歩ですぐだが、このバケツをひっくり返したような雨の中歩いて帰すのはさすがに気の毒だ。

「大丈夫ですよ。家すぐだし」
「けどこの雨じゃ──、」
 
 そう言いかけて窓の外で一瞬光った青光りに視線を移すと、同じようにそちらを見た日南子が少し怯えるように眉を寄せた。少し間を空けて遠くのほうからゴロゴロゴロ……と低い音がする。

「まだ鳴ってる……」
「雷、苦手?」
「……そりゃあ。雷得意な女子なんていないと思いますよ?」
「はは。確かにな」

 直後。ピリリリリ……とくぐもった着信音らしい音が店の中に響いた。その音に弾かれるように日南子がバックの中をまさぐった。彼女がスマホを取り出すと、くぐもった音が急にクリアに響く。
 日南子が遠慮がちにこちらを見た。たぶん電話に出てもいいものかと、巽に気を使っているのだろう。

「俺、厨房片してくるわ」

 そう言って敢えて厨房に引き上げると、彼女がこちらに気を使うように少し声を抑えて電話に出た。

   *

「もしもし……、あ。山吹くん? ……あ、うん。うん。大丈夫、少しなら……」

 相手は──男か。厨房の片付けをしている巽の耳に途切れ途切れに聞こえてくる会話。以前言っていた婚活パーティーとやらで知り合った男だろうか。遠慮がちではあるものの、少し弾んだような声に電話の相手への好意が|窺える。

「ほんと。凄いね、雨と雷。……山吹くんはもう家? ……うん。バス降りたらすごい雨と雷で」

 厨房の電気を落とし、静かに二階へと引き上げた。電話が終わった頃愛を見計らって送って行けばいい。
 相変わらず外は雨。ピーク時に比べその勢いは少しおさまりつつあるようだ。このまま雨脚が弱まればいいのだが。そんなことを考えながら窓際のカーテンを閉め、ベッドの上に乱雑に脱ぎ捨てられた服をかき集めた。
 階下から日南子の話し声が聞こえてくる。もちろん会話の内容までは分からないが、時折笑い声が聞こえたりと随分楽しそうだ。
 随分と頑張っていたようだし、いい男が見つかったのだとしたら喜ばしいことだ。

「巽さん」

 ふいに呼ばれて振り向くと、日南子が階段を上がったところでこちらの様子を窺っていた。

「あ。階下から何度か呼んだんだけど……」
「ああ。悪い。ぼーっとしてたわ」

 巽が動くより先に、彼女が物珍しそうにゆっくりと部屋の中に入って来て中の本棚を見つめた。父親がわりと読書家だったおかげで、巽の部屋には本が溢れかえっている。

「この間も思ったんですけど、凄い量の本ですね」
「ああ。半分は親父のなんだけど、俺も嫌いじゃないしどんどん増えてな」
「あ。これ、知ってます。けっこう有名な作家さんですよね」

 彼女が本棚の中の本をひとつひとつ指でなぞり目を細める。

「青ちゃんも、読むほう? 気になるのあったら貸すぜ」
「わ。いいんですか」
「好きに選んで持ってけよ。返すのなんかいつでもいいし」
「んじゃ。お言葉に甘えて」
 
 そう答えた彼女が目を輝かせながら、再び並んだ本の背を指でなぞって行く。なぞりながら「あ!」「うわ、」などと時折声を上げて嬉しそうに微笑んでは眼鏡に適った本を数冊抜き出した。


「これ、借りてっていいですか?」
「いーよ。つか、それっぽっちでいいの?」

 そう訊ねたのは日南子の手に大事そうに抱えられた本はほんの数冊。興味のありそうな本を何冊か引っ張り出していたものの、そのほとんどを棚に戻していたからだ。

「いっぺんにたくさん借りても読めないし、読み終わったらまた借りようと思って。……いいです?」
「もちろん。飯食いに来るたび借りてけばいいよ」

 そう返事をして外の雨の音に耳を澄ませた。さっきまでに比べると窓に当たる雨粒も弱まってきている。

「そろそろ帰るか。雨もだいぶおさまってきたみたいだし」
「はい」
「階下に何か袋あると思うから入れてやるよ。そのまんまじゃ持ち帰りづらいだろ」
「ありがとうございます」

 日南子が本を抱えたまま部屋を出て階段を降りるのに続いた。
 ちょうど階段の中腹あたりまで降りたとき、フッと部屋の電気が消えた。「きゃ…、」とわずかに漏れた声。バサバサ、と彼女が手にしていたであろう本が落ちる音。瞬間、暗闇に向かって手を伸ばすと、ドンという音。完全に対処できたわけではないが腕にかかる重みにかろうじて彼女が階段から転げ落ちるという最悪の事態を免れたことに安堵して息を吐く。

「痛ったぁ、」
「青ちゃん、大丈夫か?」
「……びっくりした、……停電?」
「そうみたいだな。つか、怪我してねぇ?」
「お尻打ちました……でも無事です」

 ほっとしたのも束の間、いままさに彼女の身体をホールドしている密着状態に気づいて努めて心を落ち着かせる。随分と歳が離れた妹のような存在とはいえ、全く意識しないかといえば、そうではない。巽だって、男の端くれだ。停電した真っ暗な部屋の中、若い女の子と二人きり。意識しないわけはない。

「えーと。手摺り掴んでる? 手、放すけど平気か?」
「あ……はい。大丈夫です」

 ゆっくりと彼女の身体から手を離し、冷静を装って立ち上がった。危険を感じて咄嗟に彼女に手を伸ばしたものの、一歩間違えれば違う意味で大声を出されても仕方な状況だったのかも、と考えてヒヤリとした。


「懐中電灯持って来るわ。青ちゃん、そこにいて。動くと危ねーから」
「……はい」

 素直に返事をした日南子を階段に残したまま巽は静かに店へと降りて行った。
「確かこの辺に……」独り言のように呟きながら店のレジの下の棚を覗き込む。暗闇でほとんど視界がないとはいえ、自分が毎日いる店だ。手探りで何がどこにあるかくらいは見当がつく。
 お目当ての物を探り当て、カチッとスイッチを入れるとどうにか明りがついた。

「あ。ありました?」

 階段の方からその光に気づいた日南子が訊ね「おー、あったあった」と返事を返す。立ち上がろうとした瞬間、ガンと頭をぶつけ「──っ痛ってえ!」とつい声を上げた俺に「大丈夫ですかっ?!」と彼女がまた訊ねる。

「おー、平気……」

 なに、やってんだか。いい歳して。平気なフリして、実はうろたえているのを必死に隠してるとかダサイにも程がある。仕切り直しで大きく息を吐き、懐中電灯を手に日南子のいる階段へ戻った。彼女は言われた通り階段の途中にちょこんと座って巽が戻るのを待っていた。

「そこ照らしててやっから、ゆっくり降りて来な」

 小さくと頷いた彼女がゆっくりと階段を降りて来て、下に散らばった本を静かに拾い上げようと手を伸ばした。

「あー、いい。俺拾う。青ちゃんこっち座ってな」
「……ごめんなさい。落としたから汚れちゃったかも」

 日南子が申し訳なさそうに言って、階段から一番近いテーブル席に座った。

「そんなん気にすんな」

 細かいところを気にするのもまた彼女らしい。

「で? ケツ以外、痛いとこは?」
「ないです。……巽さん、“ケツ”って、」

 日南子がクスクスと笑った。

「何だよ。通じるだろー?」
「通じますけどー! 私はアレですけど女の子に“ケツ”とか言ったらモテナイですよ?」
「ははっ。ほっとけっての」

 床に落ちた本をすべて拾い上げると、ポンポンと軽く埃を払って日南子に手渡した。



     
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