love*colors
「それじゃ、またな」
「はい」
気づけばいつの間にか彼女のマンションの前。見慣れた煉瓦色の外壁を見上げると明るい月が見えた。
「月、綺麗ですね」
「ああ」
自分の視線の先に映る月を彼女も同じように見つめていたことに気がついた。前にもあった。こんなふうに同じものを見、同じ音に耳を傾けていたことが。
こういうところも、なんとなく彼女を意識するようになったきっかけのひとつだったのかもしれない。
なんというか、離れがたい。
「小さい頃、不思議に思いませんでした? 月が自分を追いかけて来るような気がして……」
日南子が月を見上げながら懐かしそうな表情を浮かべる。またな、と言ったあとなのにさらに言葉を続けたのは彼女も同じように思っているからなのだろうか。
「ああ。あったな。特に車なんかで移動してると、実際すごいスピードで動いているはずなのに必ず同じとこに月が見えて──、」
「私、持って帰りたいとか親に駄々こねたことがあったらしいです。よく覚えてないんですけど」
「手が届きそうな気がするもんな。こうして眺めてると」
巽は右手を空に向けて伸ばし、その月を掴むような仕草をして見せた。
「ふふ。そうですね」
日南子も同じように細い腕を空に伸ばす。
「やっぱ、届かないや」
日南子がその自分の子供のような仕草を恥ずかしそうに笑って、手を降ろし、そのまま巽の方へ手を伸ばした。 巽は彼女の手の先を黙って見つめた。
「巽さんは、届きそうで届かない……」
「……」
沈黙が流れる。こんなときどんな言葉を返してやれば──、そう思い悩むもそう簡単に上手い言葉が見つかるはずもなく、巽はただ黙るしかない。
「どうしたら、届くのかな──、」
そう言いかけた日南子がはっと口元を抑え、腕を降ろすと巽を見つめぎこちなく笑った。その瞬間、自分の手が一瞬彼女の方に伸び掛け、その咄嗟の衝動に自分自身が戸惑い慌ててそれを引っ込めた。
「ごめんなさい……振られたのに未練がましいこと言っちゃった」
「青ちゃん」
「今のナシです。聞かなかったことにして……」
日南子が慌てて身体の向きを変え「おやすみなさい」と言ってマンションのエントランスに向かって駆けて行く後ろ姿を見送った。小さく揺れる髪、遠ざかる足音。震えていた声。
彼女がこちらに向けて伸ばした手を握り返してやれたら──、思わず湧きあがった衝動を抑えるので必死だった。
「……くそ、」
今、はっきりと気づいた。
そんな衝動が湧きあがるほどに彼女に対する気持ちがあるのだということ。
「マジ、何やってんだよ俺は……」
自分自身への苛立ちをぶつけるように巽は外した眼鏡を握りしめ、グシャグシャと髪を掻き毟った。
* * *
定休日の午後、近所のスーパーに母親に頼まれた買い物をしに出かけた。両親のアパートに近所にも自転車で十分ほどのところに小さなスーパーがあり、普段はそこに買い物に買い物に行っているのだが、米やペットボトルの水など重量のかさむものに関しては巽を頼って来ることが多い。
店の車の後部座席に買ったものを積み込んでいると、スーパーの駐車場の歩道スペースを横切っていく見慣れた顔を見つけて動きを止めた。
片方には食材、もう片方には不安定な蛍光灯やら電球の入った袋を両手に提げて歩いて行くのは、完全休日仕様のラフな服装の日南子だ。
以前もこのスーパーで偶然出くわしたことがあったが、生活圏が同じだとこういうこともままあるものだ。
「すげー、荷物」
巽は急いで車を出し、駐車場をぐるっと大回りし、日南子の横に車を並走しながら彼女に声を掛ける。
「青ちゃん!」
ふいに後方から声を掛けられて、日南子が驚いたように振り返ったが、巽だと分かると途端に警戒心の解けた表情になる。
巽が車を停めると、日南子もそこに立ち止まった。
「……巽さん」
「買い物? 随分重そうじゃねぇ?」
「あ、うん、そうなんです。電気買いにきただけのつもりだったのに、気づいたらけっこう買っちゃって。巽さんも買い物ですか?」
「ああ。お袋に頼まれた買い物とかあってな」
「そうなんですか」
「よけりゃ、送るか? その荷物、かなり重いだろ?」
誘ってから一瞬しまったと思った。こちらがよくとも日南子にしてみれば複雑かもしれない。
「いいんですか?!」
普段なら遠慮しがちな日南子が珍しくパッと顔を輝かせた。
「思ったより重くて、自転車でくればよかったって後悔してたとこです」
ふぅ、と眉を下げて本音を漏らす日南子の久しぶりに見る自然な表情。この表情を見てしまうと、普段どれだけ自分の前で自然に笑えなくなっているか分かってしまう。無理をさせている。そのことがなんとも心苦しい。
「乗んな」
巽は顎で助手席に乗るよう日南子を促し、車を降りて彼女から荷物を受け取るとそれを後部座席に置いた。彼女が助手席に乗り込むと、後部座席のスライドドアを閉めるのと同時に助手席のドアも閉め、再び車に乗り込んだ。
「お店の車、初めて乗ります」
「これ、配達専用だから滅多人乗せねぇし。つっても、ほとんど俺の私用で使ってっけどなー」
「配達とかけっこう頻繁にあるんですか?」
「や。たまにだよ。仕出し弁当とかたまに頼まれたりすっから」
「へぇー」
日南子が感心したように目を丸くした。
ここ最近の中で、一番自然に話せている。そのことにほっとしてつい笑みが漏れた。
「何? 電気でも切れた?」
巽は日南子の下げていた買い物袋をチラと見ながら訊ねた。
「ああ。キッチンの電気とトイレの電気が一気に切れちゃって。しかも、キッチンの蛍光灯位置が高くて、つけようと思ったら手滑らしてヒビ入って、これ実は二本目なんですよ!」
温厚な彼女が珍しく頬を膨らませて憤慨している表情がツボに入って、巽はハンドルを握ったまま思わず吹き出した。
「俺、替えてやろっか? また落として無駄んなったら最悪じゃね?」
「──えっ、」
「いや。青ちゃん嫌なら無理強いはしねぇけど」
ここまで言っておいて、無神経だったかと少し後悔する。彼女にとっては、こういう手助けでさえ複雑なものなのかもしれない。日南子が少し考える仕草をしてからチラとこちらを見た。
「……お願いしてもいいんですか?」
彼女から返って来た答えは巽にとって意外なものだった。
「私、こういうの得意なほうなんですけどねー」
「……ああ。けど、ああいうのだいたい高さあるから脚立使っても女の子には厳しかったりするもんな」
「そうなんですよ」
「んじゃ、このまま青ちゃんとこ行くわ。あそこ車停めれる?」
「はい。停めれます!」
大通りに出て真っ直ぐ走り、店の手前の彼女のマンションのある小さな交差点をゆっくりと左折した。
「お邪魔します」
初めて足を踏み入れた彼女の部屋は意外と落ちついた色調の家具が配置された1DK。部屋に入る少し前「散らかってるから!」と玄関先でほんの数分待たされたが、その程度の時間で大丈夫だということは、普段からきちんと片づけをしていタイプなのだろう。
「巽さん、こっち。いいですよ」
招き入れられたダイニング部分は、壁際に小さなキッチンカウンターがあり、その横に冷蔵庫、小さな食器戸棚。
反対側の壁には二人掛けのダイニングテーブルがあり、小さなチェストの上に小型のテレビが置かれている。若い女の子の一人暮らしらしいコンパクトなダイニングだ。
「ああ……キッチンの蛍光灯ってココか」
キッチンのカウンターのほぼ真上にある蛍光灯。思ったより天井が高く、小さな脚立では女性が電気を交換するには少し不便な造り。日南子が巽を頼ったのも頷ける。
巽は日南子が買い物に行く前に使っていただろう脚立を少しだけ移動し、そこに昇った。
「青ちゃん。悪りぃけど、それ取って」
「あ、はい!」
巽は日南子から買ったばかりの蛍光灯を受け取ると、それを手際よく交換する。日南子が巽を見上げて驚いたように息を吐く。
「早い……」
「あ?」
「私、それ外すのだってすっごい時間かかったのに!」
「ははっ。仕組みは簡単だけど、手ぇ届かないと厳しいよな、確かに。もうちょっと高さある脚立さえありゃ青ちゃんでも楽々だろ」
そう言って脚立から降りると、それを畳んで壁に立てかけた。
「──で? それはトイレっつったっけ?」
巽は日南子が手にしている電球を指さして訊ねた。
「や。いいです! これくらい自分で出来ますから」
この期に及んで変な遠慮をする日南子にクスと笑う。確かにそれくらいは彼女一人で出来るだろうが、ひとつ手を貸すのも二つ手を貸すのも巽にとっては同じことだ。
「ついでだよ、ついで。ほら、貸しな」
そう言って日南子の手から少し強引に新しい電球をもぎ取ると、玄関を入ってすぐのところにあったトイレの電気も手際よく交換を済ませた。
「んじゃ。俺帰るわ」
巽が言うと、日南子が驚いた顔で慌てて巽の手を掴んだ。
「待ってください。お茶くらい淹れますから」
「や。でもな──、」
お礼を兼ねた彼女の気持ちは嬉しいが、自分がここに長居するべきではないということだけは分かる。相変わらず彼女の手は俺の手を掴んだまま。
「わざわざ来てもらって悪いって思ってるんです。それくらいさせてください……」
「……んじゃ、一杯だけ」
律儀な彼女の性格を分かっているだけに、断わるに断わり切れず、彼女が促したダイニングテーブルに付くと、ようやく日南子が安堵の表情を見せた。
キッチンに立ちコーヒーを淹れる日南子の後ろ姿を眺めながら、次第に落ちつかない気持ちになる。やはり断わって帰るべきだったかとも思うが、彼女の厚意を無下にできないのも事実。
「テレビ、つけていい?」
「いいですよー?」
音のない空間がやはり居心地悪く感じられて、それを誤魔化すようにテレビをつける。情報番組が、ちょうど午後の最新ニュースを伝えていた。
アナウンサーが神妙な面持ちでニュースを淡々と読み上げる。テレビ画面には、大型観光バスが映っていて、どうやらどこかで事故のニュースらしい。
未だにこの手の映像は苦手だ。どうしても三年前の亜紀の事故の事を思い出してしまう。何気なく映像から視線を逸らすとちょうど日南子が淹れたてのコーヒーを小さなトレイにのせてこちらに運んで来たところ。
「コーヒー入りましたよ」
そう言った日南子がカップをテーブルの上に置いた。
「ああ。サンキュ」
「なんか、変な感じ。いつもと逆ですもんね」
「そうだな」
確かに普段、自分が日南子にコーヒーを淹れることはあってもその逆はない。ただ、以前自分が風邪をひいて彼女が朝まで一緒にいてくれたことがあった。あの時、彼女に作ってもらった朝食のことを思い出した。母親以外の人間に食事の用意をしてもらったことなど何年ぶりだっただろう。
彼女の作る料理は優しく丁寧な味。いま口にしているコーヒーも同様だ。
「旨いな」
「ふふ。巽さんにそう言ってもらえたら、私調子に乗っちゃうかも」
日南子が嬉しそうに笑う。その笑顔の彼女越しに映ったテレビの映像に巽は思わず動きを止めた。
≪──もう一度お伝えいたします。本日午前十一時ごろ、長野県軽井沢町の国道十八号のバイパス付近で観光客ら二十九名を乗せた△△観光の大型バスが対向車線をはみ出して反対車線側のガードレールに接触し、計六台を巻き込む事故が発生しました。なお……≫
次第にカップを持つ手が震えてくる。慌ててカップを置いて、その手の震えを誤魔化すように両手を強く握りしめた。
固く目を閉じて、その映像と耳から入って来る情報を意識的に遮断する。
「──っ、」
──まだだ。
結局何も変わってはいない。あれから随分月日がたち、この手のニュースにも映像にも多少は慣れたつもりでいた。けれどちょっとしたきっかけで、一瞬にして記憶を引き戻されてしまう。