今夜、夢の中で逢いましょう
真夜中のダーリン

屋根裏の恋人

数時間前に「おやすみ」とか細い声で発した人が、生前一番嫌いだといっていた色に包まれた人たちに運ばれていくのを見届ける午前1時はいつも通り静かだった。

さっきまで深い頭を下げていた加藤先輩が大きく欠伸をして、「帰ろうか」と呟いたときに私たちのやるべきことは終わったのだと実感した。ナースステーションに戻ると既に眠たそうな先輩とまだまだ元気そうな同期が「お疲れ様~」と聞きなれたねぎらいをくれる。
看護師になって二年、人の死になれるのには十分な時間を病院で過ごした私は今もさっき見送った人の人生よりも私自身の明日の予定について考えてしまっている。

「涼屋(すずや)ちゃん~この後あれいこっか」

勤務が始まった数時間前はばっちり決まっていた加藤先輩のウエーブのかかった髪は今はすっかりゆるい巻き髪くらいになってしまっていた。
その言葉を待っていましたといわんばかりに笑顔でうなずいて見せると、先輩は上機嫌に自分のロッカーに向かっていく。
あの調子だと、味玉くらいはおごってくれるかもしれない。最近の加藤先輩が彼氏と順調で、その話をしたくてたまらない盛りだというのは、もううちの病棟では浸透してしまっている事実だった。
生地の重いコートをまとって、履きなれたヒールの低めのブーツを履いて外に出ると加藤先輩はもう準備万端というように車のキーを持って、私の下駄箱の前に立っていた。先輩は夜中だというのに薄着で防寒というよりも魅せる方に特化したような装備でそこにいた。今から行くところが深夜のラーメン屋だということをこの人は自覚しているのだろうか。

「お待たせしました。どこ行きます?」

「らの屋にしよ~まだ空いてるし」

先輩の口角が楽しそうに上がっていくのを見て、今晩の残業は長くなりそうだなあと少しだけ愚痴を吐いてみたくなる。でもなんだかんだ人の幸せとともに味わう深夜のラーメンというのが至福であることを知っているから、私もちょっとは楽しみなのだ。

深夜のラーメン屋というのは得体のしれない人たちがたくさんお行儀よく座っていて、異様な空間だ。いったこともない宇宙ステーションというのはこんな感じなのかもしれない。どの星出身で今まで何をしていたのかなんてどうでもいいのだ。ただ、品物が運ばれてくるのをぼんやりと待っている。

「加藤さんたち~にんにくいれます?」

常連の先輩は名前をすっかり油のこびりついている店主に覚えられていて、おまけのような腰巾着の後輩はよくひとまとめにされてしまう。

「もちろん~私は多めで!」

「あ、私はなしで」

一瞬びっくりしたように先輩が目を丸くする。睫毛が重たげだった眼瞳は見開かれると、海外のアニメのように大きくてキラキラとしている。
私の答えのその数分後に運ばれてきたラーメンの白い湯気の向こうで楽しそうに笑う先輩が見える。

「なんで涼屋ちゃんは彼氏出来ないんだろうなあ?可愛くていい子なのに…しかも理想も低いのに」

「そうですね。人間の男ならいいんですけどね」

この台詞は高校生のころからずっと口にしている決まり文句だ。ラーメンの麺と一緒にその言葉の後に続くことを飲み込んで、先輩に笑って見せる。

「それより先輩の話を聞かせてください」


深夜三時というのは不思議と目が冴える。加藤先輩の惚気と重たい豚骨スープでいっぱいになった体を引きずるようにして、玄関になんとかたどり着く。
こんな時間ならくっつくはずの瞼はもうすっかり軽くて、でも、どこか体は子供の頃の運動会のように重たい。心地よいなかなか取れないであろう疲労をお土産に、誰もいないことになっている家の扉を開ける。
ほとんど一日中人間のいなかった部屋には誰の温度もなくて家主の私の温度すらとうの昔に消えたみたいだった。
冷たい空気と自分の吐く白い息を混ぜて熱を生み出しながら、二階へと続く階段を上る。
ギイギイと律儀に音を立てるのを聞きながら、一番奥の屋根裏へとつながる扉を開ける。
就職して少し落ち着いた頃に父が亡くなってその後を追いかけるようにあっさりと母がいなくなって。生前は物置としてしか使われることのなかった屋根裏部屋を整理して、寝室にした。
亡くなった二人の生活の匂いのしない部屋は不思議と息がしやすかったからだ。そして、なにより屋根裏部屋はある時から私にとっての運命とか奇跡とかそういうものでできた空間だった。
セミダブルのベッドの上に敷かれた布団が私の気配に反応して、もぞもぞと動き出す。
近づいて布団を捲ろうとした時だった。布団の中から伸びてきた手に思いきり体をつかまれて、中に誘うように引き寄せられる。そして、そのまま私の重みでベッドが軋む。

「おかえり、みゃーちゃん。びっくりした?」

私の上に覆いかぶさる少し幼さの残る青年は楽しそうに私を見下ろしている。
彼がカラカラと笑うたびに尖った歯が室内の少ない光を集めて鈍く光る。
白い肌はもう白というよりも青に近くて、そこに垂れる少し緩く癖のついた黒髪がその白さを引き立たせる。目の色は幼い頃好きだった甘味料でべたべたに味付けされたいちご味の飴玉のように赤く、私の顔を楽しそうに映している。
おおよそ、彼は人間と評するにはふさわしくない存在だった。

「きゅーちゃん、ただいま。心臓に悪いことあんまりしちゃダメだよ」

「ふふ、大好きだから怒んないでよ。みゃーちゃん」

みゃーちゃんこと私、涼屋 美夜(すずや みや)の上で楽しそうにもう一度笑った後、じゃれるように抱きついてくるこの青年はきゅーちゃん。
吸血鬼だからきゅーちゃんと4歳の時に私が名付けたこの青年の存在を私は誰にも打ち明けることができない。
私の家の屋根裏部屋には4歳のころから、この吸血鬼が居ついてしまっている。
そして、困ったことに今この吸血鬼は私の生涯ただ一人の恋人なのである。

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