君の日々に、そっと触れたい。

「ちょうだいよ」







気が付いたら、海辺にローファーを脱ぎ捨てていた。




「………………っ………」



4月の冷たい海水に思わず顔を顰めて身震いをする。


でも沖へ向けてどんどん足を進めていくうちに、感覚が麻痺してそれすらも感じなくなっていった。


それでも歩みを止めることはしない。

海に消えたいと本気で思った。



まるで感覚のない両脚でひたすら砂を蹴り、ちょうど腰のあたりまで海水に浸かり始めた、その時。








「寒中水泳ですか〜?」





不意に飛んできたそんな声。

反射的に振り返ると、随分遠ざかってしまった海辺に、人影が見えた。


───え…………?なに、?私に話し掛けてるの…………?



戸惑いながらも闇の中で目を凝らすと、顔までは見えないが、その人影が中学生くらいの男の子なのだと分かった。



「あれ、聞こえてないのかな?寒・中・水泳・で・す・か~?」



男の子の呼びかけに反応しない私に、彼は声が届いていないと勘違いしたのか、今度はゆっくり、はっきり、大きな声で、まるでお年寄りを相手にするようにそんなことを尋ねてくる。

そんな彼の態度に、私はなんだか無性に苛立ちを覚えた。



「寒中水泳に見えますか?!これが!」



思わずそう声を荒らげて返すと、海辺からはケタケタと小馬鹿にしたような乾いた笑い声が返ってきた。


「ここ、俺のお気に入りの場所なんだ。自殺現場にされたらちょっと困る」


────自殺しようとしてるって、わかってるんじゃんか……。


「……そんなの、私の知ったことじゃないんですけど」

「あははっ確かに。今から死んじゃう人には関係ない話だよね」


────いや、なにこの人。
なんで笑ってんの………?



「…………目の前で人が死にそうになってるのに、よく平気で笑ってられますよね……」

「別に?俺フツーに人が死ぬのは嫌いだよ。何回見ても慣れるもんじゃないし。それが知らない高校生のおねーさんでも、まぁそれなりにしんどいよ」


そう言いながらも彼は、なんだか癪に障る笑みをやめない。

暗いから顔はあんまり見えないけれど、馬鹿にされていることはなんとなく伝わった。


「ちなみにだけどさ、あんたはなんで死にたいの?」


仮にも年上に向かって"あんた"ってこの人……。しかもタメだし。


「───あなたには関係ないです」


なんでもいいから早くここから立ち去って欲しいかった。何が悲しくて死ぬ間際にこんな変な男の子にめっちゃくちゃ煽られなきゃならないのだ。


「まぁ関係ないけどさ、気になるじゃん。俺が聞きたいだけだよ」

「私は話したくないです」

「なんで?」

「…なんで、って……………」


寧ろなんで、こんな見知らぬ男の子に重い身の上話なんてしなくちゃいけないんだ。

彼がどういうつもりで話し掛けてきてるのかは知らないが、興味本位や好奇心で尋ねられて答えられるほど私にとって軽い問題じゃない。


それに、きっと話したとしても………



「あなたに私の気持ちは、わからないでしょ………」



………ああ、また言ってしまった。


ついさっき、この言葉が原因で舞と喧嘩になったのに。


私の言葉は、いつも人を傷つけてばかりだ。弟に「死ねばいいのに」なんて言ったあの日から。きっとずっとそうだった。

分かってるのに、止まらない。


「あなたみたいな…………あなたみたいな、能天気で悩みなんて無い人にはわからないでょ!?どうせ友達はたくさんいて、両親には愛されて、毎日を楽しみに生きているんでしょう?」


───違う。こんなことが言いたいんじゃないのに。



「私は………私は怖いのに。毎日、明日が来るのが、怖いのに……!生きていくのが、怖いのに!!あなたにそれが、分かる!?」


喉が張り裂けるような勢いで放ったその叫びが、冷たい海にぶつかって、木霊ますることもなく沈んでいく。

そうやって、私も、冷たい海に沈んで居なくなりたかった。



生きているのが辛かった。

幸せになれないことが悲しかった。


でも、それでも、


「死ぬのが怖い」っていう、そんな当たり前の感情さえあれば、私は今まで縋るように生きてこれたのに。

今は………生きる方がよっぽど怖い。






「………………分かるよ」



刺さるような静寂の後、彼はさっきまでとは打って変わって静かな声で、そう呟いた。



「え………………?」



「………………確かに、俺は。友達には恵まれてるし、両親にも愛されて……すごく幸せ者だと思う。だから、"死にたい"なんて思う人の気持ちなんて、微塵もわかんねぇよ。でも……」



闇が邪魔をして、表情は読めない。



「………生きるのが怖いっていうのは、すごくよく分かるよ」



よく見えないけれど、ああ彼はきっとまた笑っているのだろうな、と当たり前のように思った。

だけどきっと、さっきまでの人を小馬鹿にしたような笑みではなくて。

まるで自分を蔑むような、嘲るような乾いた笑顔で、泣きそうに笑ってる。

………なんとなく、そんな気がした。



「……でもきっと……あんたとは少し理由が違うのかな。俺が生きることを怖がる理由は、多分…………死ぬのが怖いからなんだ」


「え…………?」


「………不確かで、酷く脆い明日に怯えて生きることが、怖いんだ」


やけに頼りない声で、彼はそう自嘲しながら立ち上がり、ぱしゃ、と小さな音を立てて、裸足になって黒い海の中に一歩、足を踏み入れた。


「………ねぇ、そんなに要らない?」


「え……………?」


「あんたの人生」


「…………………要らない」



こんな人生なら、要らない。

人を傷つけて、自分も傷ついて。

幸せになんてなれないのに、必死で"普通"を取り繕って。

心はもうとっくに満身創痍で、それでも震えて生きていくくらいなら。

こんな人生、もう要らない。



「じゃあさ……」


彼はまるで初めて海の中を歩く人のように、慎重に、一歩一歩こちらに近付いてくる。

何かを言いかけたまま、彼は水を掻き歩み、ついに私のすぐ目の前まで来て立ち止まった。

そして、また笑う。




「そんなに要らないなら ちょうだいよ。
あんたの人生、俺にくれよ」




ざあ、とひときわ強い風が吹き、頼りない半月が、初めて彼の顔を照らした。

月明かりに光る明るい栗毛色の髪と、夜空を閉じ込めたようなその蒼い慧眼。日本人離れしたその妖艶な顔立ちに、惹き込まれたように身体が動かない。

訳の分からないことを言われているのに、おそらく冗談なんかではないのだと、不思議なくらいに確かに思えた。



「どうゆう、意味………?」


「そのまんまの意味だよ。……つっても全部くれなんて言わねーよ。一年だけでいいんだ」


「……いや、そもそも人生を"あげる"ってなに?しかも一年って、なんで一年?」


「死ぬから」



「…………………え?」


思わずそう反射的に訊き返すと、彼は面倒そうに「だからー」と言葉を続けた。




「俺、あと一年で死ぬんだよ。だからそれまでの一年だけ、あんたの時間俺にちょうだい」



「…………………は……?」


死ぬ?この人が?あと一年で。

何を言っているのかちょっとよく分からない。



「どっか……悪いの?」


「んーまぁ、いろんなとこが」


「え……でも、元気そうじゃん」


「まぁね、ありがとう」



───いや、褒めてないし。

てゆうか、は………?どうゆうこと??
全然話が読めない。

目の前に立つ彼は、あと一年で死ぬのだと言う。

そう言われて改めて彼を一瞥すれば、確かに華奢な身体付きではあるが、それでもしっかりと自分の足で立っている。

余命一年の人と会った経験などないけれど、目の前にいる彼は、少なくともそんな風には見えなかった。


そんな私の心情を悟ってか、彼は小さくため息をついた。


「そんなことより、早く陸にあがらない?風邪ひく」


「いや、私死のうとしてるんだけど!」


「そうだっけ?まぁでも、そんなのはいつでも出来るじゃん」


「いつでもって………誰のせいで失敗したと思って……」


「ほら、もう失敗でしょ。だからとりあず今日は諦めて、一年くらい延期しようぜ」


「はぁ………?どんだけ自己中なのあなた…」



いきなり人の自殺の邪魔してきたと思ったら、めちゃくちゃ煽ってくるし、揚げ足とるし。挙句の果てに勝手に海に飛び込んできて「寒いから上がろう」だなんて。どんだけ自己中なんだこの人。


───なんか、苛立ちを通り越して呆れてきた………。



顔を上げると、彼は相変わらず身震いをしながら、寒そうに顔を顰めている。

そんなに寒いならさっさと自分だけ上がればいいのに、その手はご丁寧に、私に差し伸ばされている。


そして仔犬の様な目で私を見て、わざとなのか素なのか、小さなくしゃみをひとつ。



「あぁああ、もう!分かったよ!」



私は投げやるようにそう言い放って、乱暴に彼の手を取った。



悔しいけど、負けた。

彼の言葉は意味不明だし、馬鹿にしてくるみたいで、ムカつくし。正直1ミリも心に響いてない。

だけど、なんか、なんだろう。

彼のいい加減でおちゃらけた態度を見ていると、なんだか全てのことが馬鹿馬鹿しくなってきて、自殺なんかしようとしてた自分にも、なんだか呆れてきて。



だからこれは、ただの気まぐれ。



彼のことを信じでみようとか、思った訳では無いけれど。どうせもう失うものなんて無いから。



「……いいよ、あげる。私の時間。でも後悔しても知らないからね」



そう言って彼の手を強く握れば、彼は驚きもせずに、ただ誇らしげに笑った。



「……後悔したとしても、あんたのその言葉が嬉しかったことはきっとずっと忘れない」



彼は私の手をぎゅっと握り返し、心底嬉しそうに、だけど少し照れ臭そうにそう笑ってみせた。


















もう春とは言っても、やっぱり夜になるとどっぷりと冷え込む。

それでも私たちは、濡れた服のまま浜辺に座り込み、どちらも帰ろうとはしなかった。

さっきまで散々「寒い」だの「風邪ひく」だの喚いていた癖に、彼は海から上がって真っ先に私の肩に着ていた学ランの上着を掛けてくれた。


「名前、聞いてもいい?俺は古城 李紅(コシロ リク)。中学2年生だよ」

「あ、えっと……池上 桜(イケガミ サクラ)、高3だよ」


「桜ね、よろしく。年上だとは思ってたけど、そんなに離れてたんだね」


───いきなり呼び捨てですか。

悔しいから私も李紅と呼ぶことにした。


てか、今はそんなことより。


「ねぇ……私の時間をあげるって、具体的に何をすればいいの?」

なんだか成り行きで引き受けてしまったけど、よく考えてみたら"時間をあげる"ってなんだろう。

「ああ……簡単なことだよ。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだ」

「手伝って欲しいこと?」

尋ね返すと、李紅は待ってましたと言わんばかりに嬉しそうに、いそいそと自分のスクールバッグを漁り出した。

暫くして目線の先に差し出されたのは、一冊の水色のノート。

表紙には黒いマジックペンで「死ぬまでにやりたいこと」と表記されている。


「なに………?これ」


「見れば分かるだろ。死ぬまでにやっておきたいことを書き留めてるノートだよ」


「………………見ていい?」


李紅が頷いたのを確認すると、パラパラとそのノートに目を通す。

ページは半分以上埋まっていて、ノートの線を完全に無視した殴り書きで、時々へんてこな落書きを交えながら、箇条書きに色々な "やっておきたいこと" が書き連ねられていた。

それは「カップラーメンを食べてみたい」とか「オールでカラオケに行きたい」といった比較的叶えやすい願いから、中には「バンジージャンプがしたい」とか「100m走15秒で走りたい」といった、わりと難関な願いもあって、多種多様だ。


中にはすでに叶ったのか、赤マルで囲まれている箇所もある。

それにしたって、ものすごい数だけど。


「もしかして………これを叶える手伝いをしろって言うの?この量を?」


「うん。だから協力者が居ないととても一年じゃ叶え終わらないんだよ。それに俺あんま病院から出たことなくて、自分で言うのもなんだけどすっげぇ世間知らずなんだよ。一人だと分からないことだらけでさ」



「……なるほどね、それで一年間でこのノートを赤マルで埋め尽くすには、協力者が必要だったわけね」


「そうゆうこと」

李紅は満足そうに頷いた。


「………でも、私学校やバイトでそんなに時間ないよ?李紅だって病気……なんだよね?そんなにふらふら出歩いていいの?」


「いーよ本当に暇な時だけ付き合ってくれれば。あと、俺のことは気にしないで。ふらふら出歩くのも、"やっておきたいこと" のひとつだから」


「でも、体調とか……」


───どんな病気なのかも、知らないけど。


「それはあんまり気にしないで。見てのとおり、元気だから。それに、ダメな時はダメって言う」


「………………分かった」


李紅はまだ私に身体のことについて詳しく話す気はないのだろうか、「元気だから」の一点張り。

でも私も自殺しようとした理由を李紅にまだ話せていない手前、無理強いは出来ない。


「……お互い、詳しいことはゆっくり知っていけばいいよ。一年もあるし」


「………………うん。そうだね」


───"一年も"、か……。

それは私にとってはすごく短く感じるけれど、李紅は違うのかな。

なんだか、もう李紅のことを疑ったりはしてないけれど、まだ李紅が余命一年なんて信じられない。

元気そうだし、なにより、すごく明るいから。

経験はないから分からないけど、普通、自分の余命がたった一年なんて分かってたら、こんなに明るく振る舞えない気がするから。


「よし、じゃあ連絡先だけ交換して……今日はもう帰ろ!もう11時だし」

「え!もうそんな時間!?」


慌ててスマホで時刻を確認すると、確かにもう11時を回っていた。


「桜、家どこ?」


「へ…?」


「送るよ。ご両親心配してるでしょ」


「あ、えっと……親はいないの。一人暮らしだから。だから大丈夫だよ」


一人暮らしじゃなくても親はいないけど、とはなんとなく言わなかった。


私の歯切れの悪い答えに怪訝な顔をしながらも、李紅は「だったら尚更だよ」と言って、私の手からスマホを奪い、勝手に連絡先を交換し始めた。


「ほら、早く行こうよ。補導されちゃう」

「………分かったよ」


まぁいいか、お言葉に甘えよう。夜道を一人で歩くのは心細いし。


渋々頷くと、李紅はまた満足そうに笑って、私の少し前を歩き出した。












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