君の日々に、そっと触れたい。

「後悔して欲しくない」

【桜 side】



最悪だ。

空っぽの下駄箱を前に、大袈裟な溜め息を零す。

ついにやられた、ローファーを隠された。


今まで体操着やら教科書やらと色々なものを隠されてきたけど、ついにローファーを隠された。

犯人は分かってる。今も後ろで数人の女子がクスクスと笑っているから。


───さて、どうしたものか。


帰宅しようにも靴がない。今日は夜からバイトだってあるのに。


「まじでどーやって帰るんだろ~?」

「靴下で帰るのかなぁ〜」

「やだぁ汚なーい!無理なんだけど!」


これはわざと聞こえるように言ってるのだろう。私が不快な思いをするだけじゃなくて、周りにいる人たちもなんだか居心地の悪そうな顔をしている。

雪奈たちは場の空気を悪くする天才なんじゃないかと思う。


──早くここから立ち去りたい。


居た堪れない視線から逃げたくて、思い切って上靴のまま昇降口を出る。

背後からどよめきが聞こえたけれど、気にしてはいられない。



──昨日もし、死んでたら。
こんな目に遭わずに済んだのかな。



そんなことを考えても、苛立ちに苛立ちを重ねるだけだ。


そんな思考を振り払うように頭を左右に振ると、正門の方から、私に向けられていたどよめきとはまた別のどよめきが聞こえてくる。


「ねー、あれ中学生じゃない?」

「ほんとだ、かわいいー」

「ハーフかなぁ?やばい美形〜」


───中学生?ハーフ?

まさか………………………。



嫌な予感がして足早に正門を潜ると、そこには予想通りの人物の姿が。


「あ、桜!おかえりー」

「李紅……!?ちょっと、なにしてんの?!」

「え?なにって言われても………」


お迎え?、なんて笑って、少しも悪びれずに小首を傾げる李紅。

ただでさえ人目を引く見た目なのに、学ランのまま高校の校門の前で人待ちなんかしていたら、道行く皆に見られるだろう。

上靴のまま昇降口を出た時よりも、確実に多い視線が背中に刺さる。


とにかく、早く立ち去りたい。


「あれ、桜なんで上履きなんて履いてんだよ?」

「──……あとで説明する!取り敢えず、行くよ!」

「え?ちょ、桜!?」


強引に李紅の腕を引き、人だかりを掻き分け、小走りで校門を抜けた。

背後からは色んな声がするし、李紅がしきりに「待って」と叫んでくるが、構ってはいられない。



「ま………待てって、ほんとに……桜!」


無我夢中に通学路を走り抜け、昨日の海辺の近くまで来たところで、李紅はついに私の手を振りほどいた。

その勢いで後ろにバランスを崩し、尻もちをつきそうになったのをなんとか持ち直す。


「ちょっと、危ないでしょ!」


文句を言おうとして振り返ると、李紅は苦しそうに肩で息をし、膝に手をついていた。


「李紅…っ?!」


慌てて駆け寄り、俯いた顔を覗き込むと、李紅はゆっくりと顔を上げ、力なく苦笑いをした。その顔色は青白い。


「ごめん!私なんにも考えてなかった!大丈夫!?」

「ん…だいじょぶ………、俺こそごめん、俺、普段あんまり動かないから……体力ほんとないんだ……ああー…ふらふらする…」

「えっ………ど、どうしよう……?!…と、取り敢えず、座る!?」


力なく頷いた李紅の腕を軽く引いて道の隅に移動すると、華奢なその背中をそっとさすってやる。


「大丈夫?気持ち悪い?」

「…平気。ちょっとバテちゃっただけだから…」


運動をすると貧血を起こしやすいのだと李紅は力なく笑った。

それから暫く海辺に二人してしゃがみこんでゆっくりと李紅の背中をさすってやっていると、10分くらい経ったころには李紅の顔色も良くなってきた。


不意に李紅が顔を上げ、ぐっと伸びをした。

「………大丈夫?」

「うんもう平気。ごめんな、ちょっとびっくりしただろ」

「ううん、てゆうか私こそ本当にごめんね………。なんにも考えずに走り出しちゃって…」


李紅は何度も「待って」と主張していたのに、とにかくあの場から遠ざかりたかった私は、自分の羞恥心を優先させて李紅に無理をさせるなんて。


「いいよ、別に。桜はなんも知らないんだし。それより、上履き」

「え?あっ……」

唐突に足元を指さされてハッとする。忘れてた。

「なんで上履きなの?」

「あ~………えっと……」


なんて言えばいいんだろう。

正直に「隠された」なんて言ったら絶対に気を遣われる。

いや、でももう自殺しようとしてたことはバレてるんだし。今更いじめられてることを隠す必要はないだろう。

私は意を決して口を開く。


「……隠されたの、外履き。私、学校でいじめに遭ってるから」


恐る恐るそう口にすると、李紅はきょとんとした顔で首をかしげた。


「いじめ……ってあれだよね?椅子に画鋲貼られたり机に花瓶置かれたりするやつ?」


「画鋲………っ、いやさすがに今どきそんな古典的なのはあんまりないけど、まぁそんな感じのやつだよ」


「それを桜が?やられてるの?桜の靴、誰かが桜に嫌がらせするために隠したの?」


「そうだよ」


キッパリそう答えると、李紅は相変わらず大きな蒼い瞳をまるくして、信じられないとでも言うように瞬きを繰り返す。

「そんなの………ドラマとかマンガの世界だけの話かと思ってた…」

そうぽつりと呟いた李紅は、みるみるうちにその顔を歪め、悔しそうにわなわなと震えあがる。


「なんだそれ!超ムカつく!!」


そう言い放って突然勢いよく立ち上がっ
たと思うと、すぐに大股でずんずんと来た道を戻り始めた。


「ちょっと李紅!?どくいくの!」

「決まっんだろ?!靴取り返して、文句言ってやりにいくんだよ!!」

「はぁあ!?ちょっと、待って!」


慌てて李紅の進行方向に回り込んで両手を広げてとおせんぼをすると、李紅はムッとした顔で不服そうに立ち止まった。


「なに?」

「なに、じゃないよ!そんなこと絶対にさせないから!」

「なんでだよ」

「なんでって……」


こうゆう問題は、他人が外から口出ししてもかえって相手の神経を逆なでして、火に油を差すだけだ。


「……上手くいくはずないもん。私が我慢するしかないんだよ」


「………我慢出来なくなったから、桜は死のうと思ったんでしょ」


「…………………」


その通りだ。何も言えない。

もちろん舞とのこともあったけど、そもそもの原因はいじめにある。

「俺は桜に、生きていることを後悔して欲しくないんだ」


そう言った李紅の蒼い瞳はいつになく真剣な色をしていて。思わず押し黙ってしまった。

私が何も言えずに居ると、李紅は唐突にスクールバッグから例の”死ぬまでにやっておきたいことノート”を取り出し、乱暴にページを開いて私に見せた。


そこには、まるまる1ページを使って、いちばん大きな字で



”桜に生きててよかったって言わせる”



と記されていた。




「え…………それ………………」


「俺、このノートに書いたことは絶対に叶えるから」


「…………でも…」



───本当に、来るだろうか。

そんな風に思える日が。


現時点での私は、弱くて、やっぱり明日が来るのが怖くて。とてもそんな風には思えない。


それを変えることなんて、本当にできるのかな。



「ほら、行くよ!」


そう言って差し伸べられた手を、戸惑いながらもおずおずと握り返すと、李紅は満足そうに笑った。


─────もし、私が生きていて良かったと言える日が来たら。

李紅はまた同じように、満足そうに蒼い瞳を細めて、笑うのかな。


そう考えたら、もう少しだけ頑張れるような気がした。


「うん、行こう」


不安ばかりの毎日だけど、李紅がいればなにか変わるような気がした。

本当になんとなく、なんの根拠もないけど。


委ねるように握り返したその手は、白くて細くて、頼りない手のひらだったけど、心の芯まで伝わるような、優しい温もりを持っていた。













結局、幸奈たちに文句を言ってやることは出来なかった。



海辺でそれなりに話し込んでしまったから学校を飛び出してからだいぶ経ってたし、

李紅もまだ本調子じゃないだろうからと あんまり急がずにゆっくりとした歩調で引き返した。

だから、学校に着いた頃には雪奈たちを含めほとんどの生徒がもう帰ってしまっていたのだ。


でも、無事にローファーを見つけることはできた。

ローファーが無くなる直前まで同じ教室で帰りのホームルームを受けていたのなら、きっとそう遠くには隠してはいないだろう、と言う李紅の推理が見事に的中し、ローファーは下駄箱のすぐ横のゴミ箱に捨てられていた。


破損こそしていなかったけれど、酷く汚れてしまったローファーを見て、李紅は手洗い場でローファーを洗い出した。

「別に、そこまでしてくれなくてもいいのに…」

「いーの。好きでやってんだから。ほら、ローファー終わったら次は上靴洗うから」

そう言って李紅は外を走り回ってすっかり汚れてしまった私の履いている上履きを指さした。


「え……洗うって…でもそしたら私履くものなくなっちゃうんだけど」

「そしたら俺が今履いてるスニーカー貸してあげるよ」

「いやいや、そしたら李紅が履くものないじゃん」

「それなら大丈夫!」

そう言って李紅はローファーを洗う手を一旦止め、自分のスクールバックからビニール袋に入った上履きを取り出した。

「俺はこれ履くから!」

「………なんで李紅上履きなんて持ち歩いてるの?」

明日も平日だし、普通に考えて下駄箱に入れてくるはず。それなのになぜか李紅はスクバに上履きを入れていた。


「……だって、俺の下駄箱、知らない人に物置にされてたんだもん」

「えっ…なんで?嫌がらせ?!」

「違うよ、多分。俺ずっと学校行ってなかったから、そこが俺の下駄箱だって知らないのかも」


わざわざ どかしてって言うのも悪いし、と李紅は悲しそうに笑った。



「……なんか意外」


「え?」


「いや、李紅のことだから、もっと皆と友達っていうか……人気者なのかなって思ってたから」


明るくて、話しやすいし。私とは正反対たから…。


「………買い被りすぎ。そりゃあ…皆普通に話しかけてくれるけど、一枚壁があるっていうか、腫れ物に触るみたいっていうか……”可哀想なやつ”だとしか思われてないよ」


慣れっこだけどね、と付け足して、私にセを向け、きゅっと蛇口を捻る。



「だから桜と居ると気が楽なんだ」



背を向けたまま、そう独り言のように呟いた。



「だって、桜には”生きる”ことに執着がないから。もうすぐ死ぬ俺のこと、可哀想だなんて思わないでしょ?」



「……………思わないよ」



腫れ物に触るような目で見られる辛さは、私もよく知ってる。

李紅と私とでは境遇が全然違うけど、きっと世間一般からみたら”可哀想”なことに変わりはない。



でも、どうしてなんだろう。

私と同じような境遇に置かれても、李紅はこんなに明るくて、よく笑う。



「………学校、もう行きたくないなぁ…とか思わないの?」


ふと気になって尋ねた。

考えてみればあと一年で死んでしまう李紅にとっては、進級も受験も言ってしまえば無縁。

それなのに学校に通う意味って、一体何なんだろう。


私の唐突な質問に李紅は驚く様子もなく、柔らかく笑って「目標だったから」と言った。


「………目標?」

「うん、そう。ずっと憧れてたんだ」


汚れた上履きを濡らしたタオルでゴシゴシと擦りながら、李紅はすっと目を細めた。



「……………一歳になったばかりのとき、左膝に腫瘍が見つかったんだ」


洗う手を止めないまま、李紅はそう切り出した。


「腫瘍の成長はかなり早くて、先生は左脚の切断を薦めたけど、父さんは俺の将来を考えて放射線と手術での治療を選んだ。

それで腫瘍は消せたけど、既に癌細胞は血液中にばらまかれていて一年も経たない内に骨髄への転移が見られた」


「転移…………」


その言葉は、何度か聞いたことがある。…と言っても、ドラマや映画でだけど。だけどこれはまったくの現実なのだと語るように、李紅は整った横顔を俯かせた。


「それからはもう、治療と再発の繰り返し。抗癌剤だったり、移植だったり、できることはとにかく片っ端からやったよ。だから学校なんて行ってる暇、無かった」


「…………だから、憧れてたの?」


「…うん。本当はね、小三くらいまでは何度か学校に行ったことはあるんだ。看護師さんとか母さんとかが付きっきりでだけど。

でもみんなと同じように体育はできないし、座って授業を受けてるだけでも体調が悪くなったりする。

小三の時ついに授業中にぶっ倒れて救急車沙汰になって、そこで初めて気付いたんだ。俺は、”普通の子”とは違うんだって。だからもう学校行くの嫌になった」



まるで台詞を読むような淡々とした口調で、どこかのドラマの脚本でも聞いているような感覚だった。

常の笑顔からは想像もつかない、李紅そんな過去。




「………それならどうして…急に行こうと思ったの?」


普通に学校に通って、普通に椅子に座って授業を受けることも困難なことがどれだけ辛いか、私には想像もつかないけど。

きっと、簡単に割り切れるような気持ちじゃない。それなのに、何で。




「皆に俺のこと覚えててもらうため」



李紅はそう言って、何故か得意げに目を細めた。



「………”覚えてもらう”…?」


「うん。俺が死んだ時、一人でも多くの人が泣くように」


「な、なにそれ………」


なんだか少し歪んでいるとも言える李紅の発言に、思わず拍子抜けする。


「普通、自分が死んでも悲しまないで欲しい……とか思うんじゃないの?」


思ったままにそう突っ込みを入れると、李紅はムッとしたように眉間に軽く皺を寄せた。


「そんなのは綺麗事だろ。体がこの世から無くなるってのに、人の記憶からさえも消えて無くなるなんて、俺はまっぴらごめんだね」


きゅっ、と乱暴に蛇口を捻ると、いつの間にか真っ白になった上靴を私の胸の前に突き出した。


「──あと何十年でも生きられたなら、そうゆう風に考えられたかも。でも、実際14年しか生きられなかったから、俺には人に覚えてて貰う以外に遺せるものなんてないんだ」


そう言って李紅は、またどこか悲しげに笑った。



14年。その言葉がなんだか重くのしかかる。

入退院を繰り返して、まともに学校にも行けなかった李紅。幼い身体に、ずっと辛い治療で負担をかけて。

想像もつかないけど、きっと他の子よりもずっと過酷で、途方もない14年だったはずだ。


それでも必死に繋いできた14年を、李紅は最初から何も無かったかのように土に返したくないのだ。



「……私、は……」


考えてみれば、まだ李紅と出会ってから一日しか経っていなくて。

もし私が李紅がいなくなった後も何十年と生きていくのだとしたら、きっと李紅の居たこのたった一年は、年々と酷くちっぽけなものへと変わっていくのだろう。

それでも、きっと………





「私は一生、李紅のことを忘れない」




なんの根拠もないけれど、無性に確信を持ってそう思った。


不意に李紅の表情を伺うと、予想外な私の言葉に、李紅は珍しく呆気を取られたように目を見開いていた。


「…………桜は俺のこと、厄介者程度にしか思ってないんだと思ってたけど」


「………まぁ正直、おせっかいな人だなぁとは思うけど。自殺の邪魔するし」


「……じゃあ、どうして?」


俺が死んだらいい厄介祓いになるじゃん、と李紅は皮肉混じりにそう首をかしげた。



「……それは…………」


正直、私にだって分からない。

出会って間もない李紅のこと、何を知っているわけでもない李紅のことを、どうして「忘れたくない」なんて思うのか。

李紅の言う通り、私からしたら李紅は厄介者だ。自殺の邪魔はするし、変なノートの完成を手伝わされるし、勝手に学校まで迎えに来るし。

李紅はいつも私のペースを乱す。


だけど、何故だろう。
不思議と悪い気はしない。

無性に忘れたくないと思うのだ。



「………その理由は、いつか李紅がくれるんでしょ?」



「え…………?」



「私に、後悔なんてさせないんでしょ?」


そう言って口の端をすっと吊り上げて見せれば、李紅は驚いたように息を飲んだ。


「……………笑った…」


────え?


動揺した小さな声で指摘され、思わず自分の口元を覆う。

再び李紅の顔を見れば、李紅は心底嬉しそうにぱぁっと顔色を明るくした。


「桜、今初めて俺に笑ってくれた…!」


まるで子供みたいに両手を広げる李紅は、その勢いのまま倒れ込むようにして私に抱きついた。


「ちょ、……李紅!?」


驚きを隠せずにその名前を呼びかけても、李紅は嬉しそうに肩を震わせるだけだ。


「………よかった…………」


ため息混じりにそう呟かれた声が、高めの体温と、思ったよりもゴツゴツとした腕の感触が、なんだかこそばゆくて俯いた。


「な、なにがそんなに嬉しいわけ…」


意味がわからなかった。

仮に、仮に私が無意識に笑っていたのだとしても、李紅がそんなに喜ぶ理由が私には見当もつかない。


「……………桜が、俺と居てもいいって言ってくれたみたいな感じがしたんだ…」


李紅は安心したようにへにゃりと笑うと、私の背に腕を回したまま、ずるずると地面にへたりこんでしまった。


「り、李紅………!?」


また気分が悪くなったのかと慌てて顔を覗き込むと、李紅は相変わらずへらへら笑っていた。


「安心したら疲れちゃった。でも、ほんと………よかった…」


「安心って………何をそんなに不安に思ってたの?」


私の問いかけに答えはなく、李紅はすかさず例のノートを取り出して、勝手知ったる手つきであるページを開いた。


『 桜の笑顔を見る』


そう大きくかかれた文字を、李紅なノートに挟まってた赤いボールペンで丸く囲った。


「……………一体、そのノートには何回私の名前が登場するの…」

「現時点ではさっき見せたのとこれだけ。でもこのノート、随時更新されますので」

「えぇっ……、終わるかな…一年で」

「そのために桜が居るんじゃん」


なにいってんだよ、と李紅はしれっとした顔で当然のことのように言ってのけた。

思わず 私の存在意義ってそれだけか、と突っ込みを入れたくなったけど、はたりと気づいた。

よくよく考えてみたら、つい昨日自殺しようとした人間としては、存在意義なんてそんなものなのかもしれない。


だって、少なくとも昨日海に飛び込んだ時点の私には、存在意義なんて全くもって無かった。だからこそ飛び込んだのだから。


────だとしたら、私がここに居ていい理由は………李紅がくれた、ってことなのかな。


そう考えると、なんだか急にムズ痒い気持ちになった。

まさかつい昨日出会ったばかりの中学生に、こんなに影響されるなんて。なんだか無性に悔しい。


───………でも、なんでだろう。

拒絶したいとは、思わない。





「さ、靴も綺麗なったし、そろそろ帰ろーぜ。高校の先生に見つかったら面倒いし」


「……………ね、李紅」



立ち上がって歩き出したその背中に声をかけると、李紅はゆっくりと振り返って不思議な顔をして小首を傾げた。


「……ノート、完成するといいね」


───私に何が出来るのか、分からないけど。私に出来ることを、してあげたいと心から思う。

そうすることで私の存在を意味のあるものにしたいだけなのかもしれない。ここにいていいよ、って言われたいだけなのかもしれない。

それでもいい。


李紅の夢を叶えてあげたいって気持ちに、嘘はないのだから。



「……帰ろうか。今日は私が李紅の家まで送るよ」

もうすっかり体調は良さそうだけど、一応心配だし。

「ええっやだよ!男としてのプライドが……むしろ俺が送るし」

「なに………プライドって。いいよじゃあ、明日は李紅が送ってよ。どうせ明日も待ち伏せするんでしょ」

半分投げやりでそう言うと、李紅は驚いたように目を瞬かせた後、何故だか嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


「……ちょっと、なにニヤニヤしてんの?」


「いや別に?明日………明日ね。うん、明日も待ち伏せするよ。明後日も、その先もね!」


李紅は心底嬉しそうにそう言って笑う。なにがそんなに嬉しいんだろう。


───ああ………そっか。

私が”明日”って言ったのが嬉しかったんだ。


昨日私が死んでいたら今日ここにはなかった明日。李紅が居たからある明日。

明日があるということは今日の私が生きているってことだ。


それが嬉しいんだ、李紅は。




……………そして、多分。

…………私も嬉しいんだ………。


李紅がそんな風に私のことを気にかけてくれることが。

他人からしたら、そんなことで、と笑われてしまうかもしれないけれど。

明日も私に会いたいと想ってくれる人が居る。

───そんなことが、たまらなく嬉しいんだ。














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