能ある狼は牙を隠す


うん、って。言ったつもりだったけれど、声が出なかった。彼の目があまりにも優しくて、涙が溢れて止まらなかった。
代わりに頷くと、玄くんは私の顔を覗き込む。


「……手、繋いでもいい?」


また頷いた私に彼はようやく少しだけ笑って、遠慮がちに私の右手を取った。
引かれるがまま数歩進んでから、思い立って振り返る。

坂井くんは、深々と頭を下げていた。そして顔を上げた後、憂いの滲んだ微笑を浮かべて、背を向ける。
反対方向に進み始めた私たちの間に、たちまち人が行き交って雑踏と化した。

恐らく、あれは彼の誠意だったんだろう。
謝罪とも感謝とも違う、決して記号で割り切ることのできない離別。

前を向く。もうきっと、振り返ることはない。
今度は私が踏み出す番だ。

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