あなたがすきなアップルパイ

恋人達の夜にとびきりのエンディングを

10.幸福理論

「あら。結局断ったの？」
　
　
　
　お店の開店前に商品を陳列する作業の最中で、目の下に若干隈が残る御堂とそんな話をした。
　ここ最近は経営が多忙なのか、せっかくのイケメンが台無しだ。
　
　
「はい。結婚となると今の仕事を辞めることになるし、今はまだお互い好きな仕事をがんばろうってことになって。それで落ち着いたらまた話し合うってことで、ひとまず収まりました」
　
「へえ、そうなの。あの彼氏には同情するわ」
　
「今は、一人で住むところを探してるんです。一緒に住んでるマンションは春には住めなくなるし、私のお給料で借りられるところがあればなあ……」
　
　
　あの夜、彼とは色々な話をした。二人の今後のことも。
　転勤でしばらく会えなくなることも含めて、莉子は別れを切り出されることも覚悟していた。それでも新谷は、別れ話を切り出さなかった。それでも莉子を愛してると言ってくれた。
　二人で暮らすことはできなくなるが、離れてもこの関係を続けていくことを約束してくれた。
　
　莉子も不安だったが、その言葉が嬉しかった。あの夜の出来事は、今もよく思い出す。彼の寂しそうな表情も、それを隠す仕草も。
　
　
　
「じゃあウチに来る？」
　
　御堂の突然の提案に、莉子のこれまでの意識がブツリと寸断される。
　本人を目の前にしても、御堂の私生活があまりにも見えない。そんな漠然とした中に、莉子がお邪魔することがもっと想像できなかった。
　
　
「へ？」
　
「なんて、冗談よ。彼に悪いものね」
　
　からかわれることはいつものことだった。
　莉子もそれを十分わかっていたが、気が緩んでいたかもしれない。御堂のそんな言葉を真剣に捉えてしまった。
　
　
　
「でもね、莉子ちゃん。ひとつ教えてあげる。私もアップルパイは結構好きよ。特にあなたが頭を抱え込んで作ったこのアップルパイはね」
　
　
　
　
　ほんのり頬を紅潮させる莉子を放ったらかしにして、御堂はショーウィンドウにお菓子を並べるとさっさと裏に引っ込んでしまった。
　
　誰も知ることのない御堂の素顔。
　莉子には彼が向けた白い背中が、あの夜に見た新谷のような寂しさを抱え込んでいるようにも見えた。