拾った彼女が叫ぶから
1. 拾った彼女

マリア

「マリアさん? ……おはようございます」
「!」

 マリアは男の髪を遊ばせていた手をぱっと引っ込める。正ににっこり、と形容するのが相応しい満面の笑顔が自分を見下ろしていて、カッと頬に熱が昇る。居たたまれなさのあまり、つい声が尖った。

「あっ、あんた、起きるのが遅いわよ」
「すみません。朝には弱いんです。これでも今日は早い方ですよ。それと、僕の名前はルーファスですって」
「ルーファス! 早く手を放してちょうだい。起き上がれないわ」

 とにかく離れようとマリアはもがくのだが、彼はまだ寝ぼけているのか腕の拘束は緩まなかった。

「ああ……。でも僕はもう少しこうしていたいです」
「ふざけたことを言ってないで、放しなさい。あんなことは昨日だけの約束でしょう」
「あんなこと? 何か約束しましたっけ?」

 マリアは思わずその目に見惚れた。澄んだ琥珀色は、本当に太古の歴史を閉じ込めたみたいに深い艶を帯びてとろりと自分を見ている。昨日は暗がりだったから色まではわからなかったけれど、自然光の元で見ると何とも柔らかな光だ。
 改めて彼の全身に目を走らせると、カフスに嵌めた宝石もまた琥珀色だということに気付いた。目の色に合わせているのだろう。細い目だけど、緩やかに弧を描くせいで穏やかそうだ。マリアは思わず見入った。
 だがその目には明らかなからかいの色があった。

「……っ、だから! 昨日……」

 その先を女性から言わせるだなんて、やっぱりこの男はろくでもない。マリアは怒りと羞恥に震えた。

「マリアさんは可愛い人ですね。そんなだから構いたくなるんですよ」
「ちょっ、放しなさいっ」

 ルーファスがぎゅっと腕の力を強めたので、マリアの身体が彼の胸に寄りかかる。慌てて腕を突っ張ろうとするのに、彼の腕は更にぎゅうぎゅうとマリアを締め付けた。胸が苦しい。それは物理的に苦しいのももちろんそうなのだが、それだけではなくて不意に襲ったやるせなさでもあった。

「──やめて!」

 一転、鋭い声を発した彼女にルーファスが一瞬目を丸くする。
 ゲイルだけじゃなくて、この男も。滲みそうになる涙をきつく目をつむって押さえ込み、マリアはきっと彼を睨みつけた。
 彼はすぐに笑顔に戻るとぱっとマリアを放した。

「すみません、冗談が過ぎましたね」

 何でだろう、また胸が痛くなった。
 ルーファスだって、きっとマリアの身体さえ手なずければいいと思っているのだ。彼女のことを軽い女だと思ったからこそ、昨日もためらわずに手を出して、今もこうやって適当にあしらおうとする。

「帰る」

 身持ちの軽い女。こうして一夜を過ごしてみれば、自分はまさにそれでしかない。
 そもそも、ゲイルとお付き合いしていたときも周りからはそう見られていたんだろう。そしてそれはこれから一生マリアについて回るのだ。
 ずんと胃が重たくなった。
 「好き」だという気持ちだけで突っ走った考えの足らなさは取り返しがきかない。

 でも昨夜のことはそれとは違うのである。一夜の情事だけで、それ以外のマリアまで自分のものにしたかのような態度を取らないで欲しい。マリアが渡したのは昨晩の一夜だけ。
 ルーファスの力が緩んだところをすかさず、腕を突っ張って立ち上がる。
 ところが立ち上がった瞬間にがくりと膝の力が抜けた。
 ふっと笑われた気がして身の置き所がなくなる。それに啖呵を切ったくせにと情けなくなった。マリアはぐっと足を踏ん張った。

「送っていきますよ、マリアさん」
「いい、要らない」
「でも歩くの大変じゃないですか?」

 ルーファスが微笑んで言うものだから、つい反発してしまう。そりゃあ正直なところ、腰の辺りが重くて怠いけど。

「いい、大丈夫」
「そうですか? はい、靴。どうぞ、僕の肩につかまって」

 ルーファスはいつの間にかマリアが脱いだ靴を拾ってくれていた。
 マリアは素直に彼の肩──というか実際にはルーファスの方が頭一つ分近く背が高いので、その二の腕──につかまって、なんとか靴を履いた。深紅のドレスと同色の、ヒールの高い華奢な靴はきっともう二度と履くことのないものだ。
 これが、最後だ。何もかも。きゅっと奥歯を噛みしめた。
 少しだけ目線が彼に近付く。少しぐらついてしまい、マリアは思わずルーファスにしがみついた。

「この靴で帰るのは大変ですよ。送ります」

 笑顔で差し出された手をマリアはじっと見つめる。
 この靴で都下のタウンハウスまで帰ることを想像して、マリアはため息をついた。馬車もないのだ。
 仕方ない。
 差し出された手よりも一回り小さい自分の手を乗せると、彼が嬉々として自身の腕に絡ませた。

「少しだけ歩いてくださいね。馬車は別の場所で待たせているので。そこまで僕がエスコートします」

 ルーファスがへらりと笑って促した瞬間、なぜだか最初からこうなることを仕組まれていたように思えて妙な気分になった。
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