狐の声がきこえる
奥田舎の山間から東京へとひた走る車窓からは、紫紺の夜空を凌駕する黒々とした山の姿が現れては消え、消えては現れていた。漫然と眺めていたその風景に民家が増え始め、暗色ばかりだった世界に淡く見慣れた色を取り戻しはじめたのは、朝日がのぼらぬうちに本家を出て一時間半ほど走った頃だろうか。辺りが白み始めて、ようやく道路につかず離れず蛇行する谷を渓流が下っているのが幾重も折り重なる木々の隙間から見えた。
ハンドルを握る依舞の険しかった横顔も、慣れない道と暗さから解放され、和らぎ始めている。
でも皐月の気持ちは晴れなかった。
何もかもが消化不良のまま、不安の種が音を立ててくすぶっているようだった。
平野に抜けるようにして道路の勾配も緩やかになり、依舞が運転する車もスピードをあげ始めた。自分がこのまま仕事に出勤することへの気遣いもあるのだろう。
ふと来た道を振り返ると、遠くなった山の端がうっすら朝日で光を帯びている。
自然はいつも、昼と夜とではまったく違う姿で存在する。その二面性こそが、命あるものすべての宿命なのかもしれない。
皐月が再会した白彦も、皐月の知らない、いや隠されてきたのかもしれない部分が白彦という人物の大部分をつくりあげていて、皐月が見ていた白彦はもしかしたらほんの一部なのかもしれない。
でもそれだけでも、その人を好きになる理由としては充分だし、皐月にとってはその白彦こそが真実だった。ただ白彦の気持ちが皐月にあろうとも、二人の間を大きな川が隔てているような感覚は拭えなかった。周りのことを気にせず、素直に白彦に想いを告げて飛び込んでいけるほど、皐月を取り巻く状況も、白彦がもつ事情も、甘くないことだけはこの数日で身にしみていた。何よりあれから白彦に会えないまま、そして待つことも叶わないまま、皐月は本家を後にしていた。
また会うのは、会えるとしたら、三日後の初七日の法要だ。
本家がある山間を見つめていた視界に、ふと後ろ座席の母の姿が入った。母は疲れているのか、体をカーブに合わせて大きく傾がせながらも眠っているようだった。気疲れと祖母の喪失感とで精神的疲労が積もっていたのだろう。あの後母に謝りはしたけれど、互いに相手を労る余裕などもてないまま車に乗り合わせている。そのぎくしゃくした雰囲気はどうしようもなかった。
知らずため息がこぼれた時、運転席の依舞が小声で話しかけてきた。
「ねえお姉ちゃん、大丈夫なの?」
「大丈夫って……何が?」
「何がって……体とか、その他のこと、とか」
依舞にしては歯切れの悪い物言いは、後部座席の母を意識しているからだ。
「体は平気。不思議なくらいなんともないし、ほかのことは、自分でなんとかするから」
あまり気を遣わせたくなくてあっさり言うと、依舞はもどかしげな表情を浮かべた。
「あのさ、余計なお世話だって分かってるんだけど」
いったん言葉を切った依舞は少し口ごもって、かすかに後部座席を気にしたように見えた。
「白彦さんのことなんだけど。お姉ちゃんのこと真剣だと思う。なんか最初は頼りなげな印象だったけど、お姉ちゃん蔵で倒れてた時、すごく頼りになって、びっくりした。あそこまでお姉ちゃんのために本気になれる人、いないよ」
運転に集中している分、眼差しが真剣なのは当然だけれど、それだけでは言い尽くせない切迫感に少し気圧される。
「……どうしたの、急に」
「これでも男を見る目には自信あるつもりなんだよね。だから、白彦さんとだったら、きっとお姉ちゃん幸せになれるだろうなって、すごくイメージできたの」
幸せ、というキーワードに、一瞬、祖母の手紙を思い出した。
「……そうかもしれないね」
彼は、皐月たち普通の人とはきっと違うだろう。でもそれがを言ったところで、なんになるだろう。事実など、人によってどうとでも形を変えうるし、なにより誰も信じはしない。
「お姉ちゃんはさ、遠慮しすぎるきらいがあるじゃん。チャンスをいっぱい逃してきてそうだから、……でも今回ばかりは掴んだ方がいいと思う。きっと白彦さんならお姉ちゃんのこと大切にしてくれる。あんな人、これから先現れるかなんて分からないよ?」
「……そうね」
「ねえ、どうなの? 白彦さんじゃダメなの?」
頭を振った。
「むしろ私には、もったいないくらい」
「その言い方、ずるくない? つまり好きなの? どうでもいいの?」
厳しめの追及にうろたえ、小さくため息をついた。
「……好きだと思う」
そうはっきり口にすると、皐月の中で白彦という存在がまた一段と大きくなった。でも白彦の隣に自分が並ぶ光景、それはなんて甘く柔らかな幻想なのだろうと思った。
「じゃあ誰に遠慮することないじゃん。二人の時間、つくるようにしてみたら? 絶対うまくいくから」
例えば皐月が彼氏との関係にけじめをつけて、白彦に想いを告げたら、普通の恋人同士のように寄り添い、同じものを見て泣いたり笑ったり怒ったりできるのだろうか。人とは違う白彦が、皐月の想いを受け入れるなんてことは、あるのだろうか。
白彦には白彦の、人には人の、理がある。
それを侵して、白彦は皐月のそばにいてくれる。白彦にとって自分の身を危険にさらしているかもしれないその状況で、これ以上の何を望もう?
ふっと祖母の言葉が蘇った時、大きなため息が後ろから届いた。
「お母さんは、反対よ」
依舞がぎょっとして、すばやくバックミラーで母の姿を確認した。
「ママ、起きたの? もう東京入ったよ」
依舞がさりげなく話題をそらした。でもこの時の母は頑なだった。
「悟兄さんの息子なんて、あんまり考えたくないわ」
「……悟おじさんがダメなの?」
「葬儀の時の様子を見てたらわかるでしょ。ふらっといなくなったりして。それだけじゃなく、あの人、昔から非常識なふるまい多いんだから」
兄だというのに容赦なく突き放している。
「でも悟おじさんはそうでも、白彦さんは、すごくいい人だと思うんだけど……」
めったに母の言葉を否定することのない依舞が、遠回しに白彦をかばう。それがまた母を意固地にさせたようだった。
「たかが二、三日過ごしただけじゃ、人の本質なんてそう簡単に分からないわよ。だいたいどこに就職したかなんて話題になったこともないし、スマホも持ってないっていうじゃない。兄さん同様、変わり者よ」
身内、しかもあまり接点の少ない甥に対して、よくそこまで突き放せるものだ。
「……お母さん、それは言い過ぎじゃない? 私、彼に助けられたんだよ?」
「だからよ。冷静になれてないから、今は彼がよく見えるだけなの。皐月には、もう少し皐月を積極的に引っ張ってってくれるような人じゃないと。あんな田舎でのほほんとしてるような男じゃダメ」
「そうは言うけど、きよくん、見た目は優しくても芯はしっかりしてるよ。それこそ悟おじさんの代わりにいろいろ動いてくれてるじゃない」
やんわりと諭すように伝えても、母の中で白彦の印象がよほど悪くなることがありでもしたのか、態度が変わらない。
「そうかしら。お母さんにはそうは見えないわね」
「ママ、白彦さんの悪いとこってどこ? 白彦さんのよくないところは、他の男の人でもダメなわけだから、お姉ちゃんが知っておくのも損じゃないかなって」
依舞がさりげなく口を挟んだ。
「どこって言われても……親のカンよ。白彦くんはダメね」
それまではっきりと言葉にしていた母が口ごもり、それでも強引に言い切った。その態度は、勘という名の先入観で、白彦をはじめから見ていないのだと気づかせるには充分だった。
「ねえお母さん」それは皐月の中に抱えていた母への煮え切らない感情に小さな火をつけた。
「お母さんはなんとなくきよくんが気に入らないだけなんじゃないの? お母さんの手の内でどうにかできる相手じゃないから」
おそらく、白彦以外の男の人でも皐月が選ぶ相手は、母の眼鏡にはかなうまい。
母は、自分を認めていない。
いつまでも情けない、しっかりしない子ども。
母の再婚を邪魔した、いけない子。
「私の手の内?」
棘を含んでしまった皐月の言葉は、明らかに母の神経を逆なでした。
「いつ私があなたや白彦くんをどうこうしたいなんて言ったの?」
「言ってない。でも、つまりはそういうことなんじゃない? お母さんがいいと思う相手は」
「言いがかりでしょ、それは。別に皐月の恋愛に口を挟むほどヒマじゃないの、お母さんは」
「じゃあ私ときよくんとのことに、口を挟む必要ないじゃない」
「それとこれとは別よ」
「言ってること、分からない」
「分からないならお母さんの言う通りになさい。失敗してきた私だからこそ分かることもあるの」
「その失敗ってやめて。まるで娘の私が失敗作のように聞こえるの」
思わずきつい口調で言い捨てて、母が黙ったことにハッと振り返った。母の目の奥が揺れていた。車という密閉空間に逃げ場のない沈黙が落ちた。
「……ごめん」
依舞の気持ちを思うといたたまれなくなって謝ると、母が感情を抑えたような声を押し出した。
「とにかく白彦くんは反対。この話はこれきりにして」そう言って疲れたと言わんばかりに目を閉じてしまった母に、皐月は唇をかみしめ、視線を手元に落とした。膝の上にはバッグがあり、そこには祖母からの手紙が大切に入れてある。
自分の手で、しっかり守り通したいことが何かと問われれば、今ははっきり言える。
皐月に注ぐ深く包みこむ柔らかな眼差しも、暮らしや命あるものへのおおらかな優しさも、どれだけ皐月の心を満たしてくれただろう。
それができるのは、一人しかいない。
「私……お母さんにどんな風に思われても、お母さんがどれだけ反対しても、今回だけは譲れない。私がきよくんのそばにいたいから」
「そばにいたい、って……やめてちょうだい。あなたの口からその手の話、聞きたくないわ」
母は嫌悪感に歪めた顔を背けた。
皐月の恋愛に関すると拒絶反応を見せるのは、実はこれで二度目だ。一度目は大学に入学してしばらく経った頃だ。皐月に彼氏ができたことを依舞から伝え聞いた母が、彼氏を家に連れてきたらいいと言ってくれた。だから皐月は当時つきあいだしたばかりの先輩を家に招待した。終始、先輩の前で母は上機嫌に見えた。
でも先輩が帰ってからの母は、それまでとはうってかわり、先輩の痕跡を消すかのように徹底的に家の中を掃除し、消臭し、除菌した。
「ああ、気持ち悪いわ」
意図して言葉にしたのかは分からない。でもそれが母の本心だということくらい、娘なら分かった。以来、皐月は母に恋愛の話をしなくなった。同時にその言葉は、皐月の恋愛に暗い影を落とした。先輩ともほどなくして別れ、他の人とも長くは続かず、そのうちに男性と交際することそのものにあまり積極的ではなくなった。
母の嫌悪感の底にあるものが、皐月のせいだと気づいたのは、いつ頃だったか。
大きく息を吸った。今向き合わなければ、皐月は永遠に、この想いに素直になれなくなってしまう。
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