狐の声がきこえる

祖母の葬儀の場もわきまえず、自分の息子との結婚をすすめる常識がどこにある。
苛立ちがおさまらず、そのまま戻るべき部屋を通り過ぎて玄関へと向かい、サンダルをつっかけて外に出た。庭に狐面の子どもがいた怖さも飛んで、大股で長屋門の方まで歩いた。夜気が皐月を取り巻こうと手をのばしても、それすら振り払ってさらに外へ、屋敷の敷地から出た。目の端をわずかに通り過ぎた門前提灯のほのかな明かりさえ、ささくれた気持ちを宥めはしない。
しばらく風を肩で切るようにして行き、あぜ道の途中でふと立ち止まる。
振り返ると離れたところでぽつりと、長屋門の提灯の明かりが寂しげに浮かんでいる。周りは、なみなみと水が張られた田んぼが広がり、月の光が描く筋模様の中で稲の苗が渡る風に揺れている。
田んぼと田んぼの間で、黒い点のように沈んだどの家にも明かりはない。
しきりにカエルが鳴いている。
都心ではありえない静けさに身を沈めていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
皐月は大きく息を吸い込んで、体のうちに渦巻く感情をのせて吐き出した。
大人げない態度だったとしても、男と女という生々しい関係に、白彦と自分を当てはめたくなかった。例えつぶさに覚えていなくても、あの頃過ごした幸せな時間は、自分だけの宝物としてとっておきたかった。白彦と会わなくなった、その後めまぐるしく過ぎ去っていった日々との差が大きいだけに。
冷静さをとりもどすうちに、またため息が出た。月光の中で田んぼの上を渡ってくる風の冷たさも身にしみた。都会の雑踏に慣れた目には目の前の風景はとても淋しい。
片腕で体をあたためるようにさすりながら、皐月はポケットからスマホを出した。画面に勤務先の営業部グループから「神宮寺陽平」の名前を呼び出す。
通話ボタンを押しかけて、ぐっとこらえた。無意識に呼び出した相手が、つきあって一年半になる男だと思うと、割り切れない自分に情けなくやりきれない。
簡単に別れることができたら、どんなに楽だろう。軽い遊びのひとつさえ、皐月にはうまくできない。
涙がにじみそうになって、慌てて目を見開いて空を仰いだ。
その時、道を擦るような雪駄の音が聞こえてきて、その方角に顔を向けた。
丹前の袖に両手をいれて浴衣姿で歩いてくる白彦だった。
「皐月ちゃん? こんな時間にどうしたの?」
白彦が早足で皐月に近づいてきた。
月明かりのせいか、それとも依舞や悟伯父から聞かされた話のせいか、少し顔を見づらい。
「……別になんでもない。きよくんこそ、こんな時間にどうしたの?」
「ちょっと眠れなくてね、散歩してたんだ」
そう言って白彦は丹前から手を出すと、皐月の肩に触れた。
「ああ、やっぱり。そんな格好でいるから……。五月といっても、この辺は夜になると寒いんだ。女の子なんだから気をつけないと」
白彦は自分の丹前を脱いでふわりと皐月の体にかけた。
性別関係なく遊んでいた相手が、自分を自然に女性扱いしていることにうろたえ、慌てて誤摩化すように俯いた。丹前の衿を合わせると、寸前まで着ていた白彦のぬくもりが、ささくれていた気持ちを溶かして、引っ込んだはずの涙がまたわきあがった。
「ありがとう……、あったかい」そう呟くと、白彦が「いいよ」と小さく笑った。
「思い出話、していい?」
顔をあげると、白彦は皐月を少しからかうようにのぞきこんだ。黒く深い目の光が柔らかくて、なんとなく先に視線をそらした。
「昔、こんな夜に皐月ちゃんと2人で家を抜け出して大目玉くらったんだよ」
大切な宝物のように愛しげに言う白彦に視線を戻すと、白彦は屋敷の前に広がる光景に視線をうつしていた。どこか切なそうな横顔が月明かりに照らされて、本当にこの男性は人じゃないみたいにきれいだと思った。
そう思って、そういう風に白彦の横顔を見たのが初めてじゃない気がした。
「急に皐月ちゃんが夜の冒険しようって言いだして。やめようって言っても聞かなくてさ」
「私が?」
「うん、小さい頃の皐月ちゃん、すごく好奇心旺盛でしかも勇敢でどこにでも行くから困った」
「皆そう言うけど、そんなに?」
「うん、こんなに女性らしくしとやかになるなんて、びっくりだよ」
なにげない言葉に、白彦が自分をどう見ているのかが垣間見えて、またうろたえる。もう、小さい頃のように無邪気ではいられないのだ。
どう振る舞えばいいのか分からなくて、聞かなかったフリをして言葉を返した。
「もしかしてその時きよくん、すごく怖かった、とか?」
「そう、本当はこの辺って夜はすごく怖いし、やだった。でも女の子の皐月ちゃんが全然平気そうで、僕が怖がってるとこ見せらんないでしょ」
苦笑しながら白彦は田んぼの奥を指さした。
「あそこ、あの林のそばまで行ったんだよ」
目を凝らすと、月明かりに浮かび上がる田んぼを凌駕して、山の黒々とした輪郭が聳えていた。この辺りの集落では、その険しい山容からすぐ目に入る里山ーー古宇里山だ。
山頂に断崖絶壁の岩肌を見せて荒々しい雰囲気だけれど、中腹から裾野にかけて豊かな山の幸がとれる恵みの山として、昔から神の山として大切にされてきたと聞いたことがある。
「だいぶ行けたんだね、子供の足なのに」
「だから余計、怒られたんだよ。一番はおばあちゃんが怒ってたなあ」
「え、おばあちゃんが?」
「あれで怒るときは怒る人なんだよ、おばあちゃん。ほら、僕は家も近いから頻繁に遊びに来てたし、その分、厳しかったというか。あれしちゃなんね、これしちゃなんね、って口うるさいところもあったんだよ」
いつも穏やかに笑んでいた祖母が怒ったというなら、それはきっと子どもだった皐月にはインパクトを残しただろうに、思い出せない。日々に追われるように生活していると、過去の記憶や思い出は簡単に忘却の淵へと追いやられてしまう。
「ごめん……、私、あまりあの頃のこと覚えてなくて」
白彦は、緩く頭を振って微笑んだ。
「忘れていてもいいよ。僕がその分覚えてるから。どんな遊びをして、どんなことで笑い合ったか、泣いたか、ケンカしたか、知りたくなったら僕に聞いてくれればいい。皐月ちゃんは無理して思い出さなくてもいいんだ」
大きな腕に受け止められているような安心感が胸の奥に満ちてきて、堰を切りそうになる。ありがとうもごめんなさいも、どんな言葉も白彦の優しさの前ではかすれそうだった。
「きよくん、こっちにいる間は時々でいいから、こうして昔の話、聞かせて。なんていうか、両親が離婚してからずっと目の前のことで精一杯で。おばあちゃんも、この家に遊びに来ることも、そこできよくんと遊ぶことも大好きだったはずなのに」
相づちを打つ白彦の優しさに堪えきれず、涙がこぼれて俯いた。
白彦は一歩足を踏み出すと、皐月の体に腕を回してあやすように静かに背中をたたいた。カエルや虫の鳴き声の間を風が吹いて、さらさらと道の脇に生えている草の波打つ音が聞こえた。どこかで動物が甲高く鳴いて、それに反応した民家の犬が遠吠えをした。
白彦の優しい手のぬくもりが、張りつめてきた気持ちを緩やかにほぐしていき、同時に照れくささが少しずつ戻る。涙をぬぐって、白彦から一歩下がって離れた。
「なんか、恥ずかしいとこ見せた。もういい大人なのに」
皐月が笑ってみせると、白彦は少し哀しそうに頭をふった。
「泣きたい気持ちに大人も子どももないよ」
また感情が揺さぶられそうになる。
「……なんか、いい男に成長しすぎ。これじゃ私ばっかり情けない」
自分の内側に広がる動揺と、真剣な眼差しの白彦から逃げるように軽い口調を装った。
「そろそろ戻らない? このままじゃきよくんに風邪ひかせちゃう」
これ以上視線を合わせているとどうにもならない感情を呼び起こされそうで、白彦を見ずに屋敷の方へ足を踏み出した。
すぐに白彦が少し切羽詰まった声で「皐月ちゃん」と呼び止めた。そのまま振り返ったら取り返しのつかないことが起きそうで、皐月は落ち着こうと深く呼吸を繰り返した。今はまだ、無邪気な子どもの頃のままで、そっとしておいて欲しかった。
「……皐月ちゃん」
もどかしげに、さっきより少し強い口調で、白彦が呼んだ。ひと呼吸置いて「風邪、ひいちゃうよ」と言って振り返った。
真剣な、熱を孕んだ眼差しが皐月に注がれていた。
穏やかな光を湛えるばかりだった切れ長の瞳が、月明かりの下で言葉よりも雄弁な強い光を放って、まるで金色に光っているようだった。それは白彦の凜とした佇まいに似合って、とてもきれいだった。
いつから、白彦はその瞳で、皐月を見ていたのだろう。
悟伯父の、ずっと待っていたという言葉がよみがえった。
「もし。もし、皐月ちゃんが助けてほしい時はきっと呼んで。皐月ちゃんがどこにいても、必ずそばに行く」
胸の奥が大きく跳ねて、なびきそうになるのを堪えた。
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
掠れた声で尋ねると、白彦はハッとしたように視線を揺らし、それから狼狽えたように目を伏せた。
「……僕は昔、君に救われたから」
「救う? 私……が、きよくんを?」
命を助けたことでもあったのか。
記憶に思い当たる節はなく、そんな大事なことさえも忘れているのかと血の気が引いた。
「そんな大事なこと」
「あ、いや、忘れていて当然なんだよ、思い出す必要ないんだ」
慌てた白彦が動揺する皐月をなだめるように一歩近づいた。
「当然って、なんで、」憮然として、白彦の顔を見たつもりだった。でも上半身をわずかに屈めた白彦の肩の向こう、二人で遊びに行ったという古宇里山の林が目に入った。
そこには、いくつもの小さな光が松明のように揺れていた。車のライトや誰かの懐中電灯ではない。不規則に上下左右に揺れる無数の、青白い光。
小さな悲鳴がもれた。
皐月の様子に、白彦が素早く背後を振り返った。そして苛立たしげに唸った。
林の中、青白い光が一列に揺れるように浮かんでいて、それはどんどん増えていく。
「あれ、きよくん、あれ何、」
いくつかは明滅している。皐月の全身を今までにない恐怖が包みこんだ。
金縛りにあったように目を離せない皐月の視界を遮って、白彦は肩を強く抱いた。
「皐月ちゃん、家に入ろう!」体の向きを強引に変えると長屋門へと歩き出した。
脳裏を狐の嫁入りのあの列がよぎった。
怖いのに、見たい。
見ちゃいけない。
でも、確かめたい。
あれは、きっと。
もう一度背後を振り返ろうとした。
「見ちゃダメだ!」
白彦の激しい声に皐月は身をすくませた。そして白彦の歩調に引きずられるようにして、長屋門をくぐって表玄関へと向かう。一瞬、視界の端で悟伯父と圭吾伯父が詰めている座敷のカーテンが揺れて、人影を見たような気がした。
勢いのまま表玄関に入ると、白彦は肩を抱く力を緩めた。
さっき見た光景が忘れられない。
あれは、そう。
祖母の声がよみがえった。
ーー皐月、夜に誰もいねえ、火の気のねえところに松明みてえな光がたっくさん浮かんどったら、逃げねとだめだかんな。
ーー狐火っちゅうて、この世のもんではねえがら。
「ねえ、きよくん。あれって、狐火……」
言い終わらぬうちに、白彦が両肩を強く掴み直して、皐月の顔をのぞきこんだ。
「皐月ちゃん、僕の目を見て」
呆然としていた皐月は、白彦に言われるがまま至近距離に近づいた切れ長の瞳を見返した。そこにあったのは、月明かりの下でもないのに、燦然と金色に輝く虹彩だった。
< 8 / 36 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop