君なりのさよならの仕方
樹と夏帆
樹が嘘をつくとすぐに分かる。私の入る隙がないように早口でひととおり喋った後、気まずそうに目線をそらして自分の爪をじーっと見つめる。ただでさえしょっちゅう嘘をつくんだから、そろそろもうちょっと上手にならないものか とも思うし、小さい頃、例えばテストの点数が悪かった時なんかに、母親の前でもこんな風にしてたのかな と思うとすごく愛おしい。

そう、わたしは樹が愛おしいのだ。

わたしより3つ年下(と言っても27歳と24歳では大して変わらないかも知れない)だということを差し引いても、やっぱり樹は可愛い。食卓に並ぶ料理があまり好きなものじゃないと気づいた時に きゅっと口を結ぶあの瞬間も、洗いたての私の髪を弄ぶ午後11時も、樹はいつだって可愛いのだ。

「俺ね、夏帆ちゃんとずっとこのままで大丈夫かなあって思うんだ」

確か5日くらい前、近くのコンビニで買ったグラタンから器用にマッシュルームだけを取り除きながら樹は言った。

「うん、それで?それでどうしたいの?別れたいの?」

付き合ってからの2年弱で、私はもう何度もこの台詞を聞いたし、何度も同じ返しをしてきた。その度に樹は困ったような悲しいような顔をして 別にそういうことじゃないんだけどさあ とうつむく。そういうことじゃないならどういうことだよ、と私は思うのだが、なるべく喧嘩はしない約束だったし、もし、万が一こんなことが原因で別れたら と思うとそれ以上のことは聞けなかった。だから、

「うん、そういうことになるのかな」

という樹の返事に私は心底驚いた。こんなのは日常会話のようなものだと思っていたし、樹が私無しで生きていこうとするなんてありえないとどこかで確信していたから。

「どうして?ずっとこのままじゃいけないの?私もあなたもちゃんと仕事をしてて生活にも困ってない、結婚だって、私はまだ適齢期だし……」

あまりにも予想外だったので、途中で言葉を止めてしまった。私には何か、自分では気づかなかった重大な欠点でもあるのだろうか。

長い沈黙が流れて、それでも樹が口を開かないので気まずくなった私は冗談交じりに

それとも他の女?

と顔を覗き込んだ。そうならそうだと 違うなら違うと言ってくれればよかったのに、樹はものすごく真っ直ぐに私の目を見て

「あのね、夏帆ちゃんはいい女だよ。20代後半になっても肌が綺麗だし、爪先まで手入れしてるし、美しい言葉をたくさん知ってる。料理も美味しいし…でもね」

そこまで言って、目をそらして自分の爪をじっと見つめた。でもねの続きは?みたいなことを聞いた気がするし、それから朝になるまで泣いたり声を荒げてみたり、色々な感情表現で色々な話をした気がする。

もう忘れたのだ。結局樹は荷物をほとんど持たないまま部屋を出て行った。5日間私は抜け殻だったし、それでも仕事は行かなきゃいけない、食事をしなきゃいけない、観葉植物に水をやらなきゃいけない。抜け殻なりに精一杯生活して、今、樹からの荷物をいつ取りに行けばいいのかという旨のメールを見つめている。大学の先輩後輩だった私たちには共通の友人が多い。私のひとつ下で演劇サークルの後輩だった飯窪麻里恵が言うには「きっと新田くんはね、ほんとは先輩が思うような、子犬みたいな、なんていうかそういう男じゃなかったんですよ。行きつけのお店でよく会ってた、どこだかの女子大の女の子で、まだ二十歳になってるかなってないかですって、もう笑っちゃいますね」ということだった。

樹が18の時に演劇サークルに入ってきてから6年以上、私が見てきた"彼"は誰だったのだろうか。少なくとも私の前での彼はいつだって私の知ってる"新田樹"だった。一瞬も崩れることはなかったはずだったのに、私の知らない彼の顔を見た女がいる。その子の前での樹はどんな表情で、どんな話し方をするのだろうか。まさかソファでお風呂上がりの髪の匂いをかいで無邪気に笑ったりはしないだろうし、マッシュルームをちまちまとよけたりもしないだろう。

「いつでもいいよ。家具はほとんど私が元々持ってたものだし、そんなにたくさん荷物はないだろうから。私がいない間に済んだら、合鍵はポストに入れておいてね」と、出来るだけ丁寧に返信をして、スマホの電源を切った。

2年近くも付き合って、まだ子供のような年齢の女に奪われて、終わった。

それだけといえばそれだけのことなのかもしれない。物事の終わりなんてものはいつどこでもそのくらいあっけないものだということを知ってしまった。

急に思い立ってわたしはスーパーに行き、樹が嫌いだったものを思いつく限りカゴに入れた。セロリ、辛子明太子、レーズンの入ったパン、シーザードレッシング、マッシュルーム。これからは、いくら食べてもいいんだ。本当はシーザーサラダが好きだったけど、樹がごまドレッシングが良いと言うからずっとそうしてきた。でもこれからは好きなだけ食べてやろう。

家に帰って、温めたレーズンパンにマーガリンを塗りながら、私は泣いた。樹が出て行ってから初めて大声で泣いた。抜け殻のままでいれば、樹がいなくなってしまった事実を受け入れなくて済んだかもしれない。それでも私は夜な夜なセロリを刻みながら、次の日の朝食のオムレツにたっぷりのマッシュルームを入れながら、泣いた。

私を欺いているつもりなんて、きっと少しもなかったのだろうと思う。私にだって樹にだって、色々な顔がある、それだけの話だと分かっている。

それだけ。それだけばかりの失恋だ。

樹がその女の子にあっさり捨てられたりして、バツの悪そうな顔をして連絡なんかしてこなければいいなと思っている。それだけ、の恋はそれだけくらいで終わらせておけばいいのだ。

私はオムレツの最後の一口を食べ終えて、髪の毛を結んで、爪を磨いた。いつもより念入りに、いつもより綺麗でいられるように。

私は今日も生きている。それだけなのだ。
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