料理研究家の婚約レッスン
「で、メシはどうする」

 あらためて尋ねた碧惟に、梓はブンブンと手を振った。

「適当に済ませるので、大丈夫です」

「外に食べに行くのか?」

「いえ、おなかもすいてないですし」

 たしか通勤用のバッグには、いただきもののお菓子が入っていたはずだ。おなかがすいたら、それでも食べれば良い。

 この数ヶ月の間に、すっかり食生活は乱れていた。

 始まりは、婚約破棄のショックからの食欲不振だった。その後、前のように食べられるようになったが、部屋に引きこもっている間にお菓子やジュースをダラダラ食べる癖がついてしまい、食事を抜くことが多くなった。家族と顔を合わせたくなかったせいもある。

 ひとり暮らしをするようになってからは、食事に気を回す余裕がなく、コンビニで適当に買って済ませている。

 しかし、そんな梓の食生活を碧惟は知る由もない。

「腹がすいてないって、体調でも悪いのか」

「いえ、そういうわけではないですけど」

「昼は、なに食べた?」

「えっ? メロンパン……」

「他には?」

「コーヒー」

「朝は?」

 東京に出てきてから、朝は食べていない。

「……今日は、忙しかったのか?」

「いえ、そういうわけでは」

 キョトンとした梓が首を横に振ると、碧惟は端正な顔をゆがませた。

「……それで、本気で料理本を担当しようって言うのかよ」

 ひとりごちると、髪をかきあげた。

「アレルギーとか、食べられないものとかあるか?」

「いえ、ありません」

「余り物で良ければ、昼間に作ったものがある」

 そう言い残すと、碧惟は入ってきた方のドアから出ていってしまった。梓も慌てて後を追う。

 101号室のキッチンに行くと、碧惟は鍋を温めていた。

「皿を出してくれ。右にあるスープボウルでいい」

 カウンターキッチンの裏側を占める棚には、凝った食器が整然と並んでいる。

 碧惟の言うスープボウルは、表側がチャコール、内側は生成りの、取っ手付きの陶器だった。楕円の縁が微妙に歪んでいるように見えるから、手びねりなのかもしれない。

 碧惟の指示で他の皿も差し出しながら、ふと気づく。シンプルな洋皿は半ダースずつあるけれど、普段使っていそうなお茶碗やお椀、マグカップなどは2組ずつだ。最初に取ったスープボウルもそうだった。

 作家物は、2組ずつ揃えているのだろうか。

「よし、食べるか」

 サッと準備を終えた碧惟が、ダイニングテーブルに梓を誘った。

 向かい合わせに座ると、碧惟はジッと梓を見据えた。

「食欲がないなら、無理しなくてもいい。ただ、体調が悪いわけじゃないなら、一口でも口に入れろ」

「……いただきます」

 勢いに押されて、手を合わせる。

 まずは、湯気を立てているスープ皿をスプーンでさらった。

「うわ……おいしい」

 思わず梓が漏らすと、碧惟がわずかに目をみはり、口元を緩めた。

「そうか」

「これ、なんですか?」

「アスパラガスとパンチェッタのトマトスープだ。もち麦が入っているから、それだけで一食済ませてもいい」

「上にかかっているチーズが、いい香り」

「外食や加工食品に慣れている舌には、スープの塩分だけじゃ物足りないかと思ってな」

「あ……」

 梓は思わずスプーンを置いた。

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