料理研究家の婚約レッスン
「挨拶が済んだら、さっさとあっちへ戻るぞ」

「あー、知らなかったとはいえ、女の子の部屋を勝手に通っていたなんて。本当にごめんね」

「いえ、気にしないでください」

 101号室と102号室を行き来するには、梓と碧惟の寝室をそれぞれ通るしかない。梓の部屋の荷物は、すべてクローゼットにしまい込んでいたので、恭平は気づかなかったのだろう。

「恭平。今日は、こいつが手伝うと言ってるから、何かあれば言いつけてやれ」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく」

 梓は、自分の部屋を通り際、通勤鞄を置き、エプロンを取る。服装はパンツスタイルで、髪もまとめていたので、このままで問題ないだろう。

 二人に続いてキッチンスタジオへ入ると、調理台には既に食材や調理用具が用意されていた。

「じゃあ、河合さんには受付をしてもらおうかな。生徒さんが来たら名簿をチェックして、このレシピカードを渡して、席に案内してもらえる?」

「はい」

 恭平に教えてもらい、梓はスタジオの入口で生徒を待った。

 開始時刻の20分前を過ぎると、続々と生徒がやって来る。

「こんばんは。お名前をお願いします」

「こんばんは。田口です」

「田口さんですね。レシピをどうぞ。今日は、3番のお席でお願いします」

「はい」

 生徒は、みな女性だった。年齢は、30代から50代くらいに見える。平日の夜開催のため、仕事帰りの人が多いようだ。

 梓が受付をしていると、驚いた人が多かった。

「あなた、見ない顔ね。新しいアシスタントの方?」

「いえ、臨時の手伝いです。河合と申します。よろしくお願いします」

「そう。碧惟先生も恭平先生も、お忙しそうだものね。よろしくね」

 内心ビクビクしながらも笑顔で答えると、ほとんどの人は納得したようだった。

 だが、中には露骨に不満そうな人もいた。

「先生。アシスタントを募集するときは、声を掛けてってお願いしてましたのに」

「いやぁ、ごめんなさい。河合さんは編集者で、取材も兼ねて手伝ってくれているだけなので!」

 恭平が取りなす。本当は編集者ではないのだが、それは言わない方が良さそうだ。

 開始時刻までの間、生徒はエプロンをつけたり、手を洗ったりと準備をしながら、なにかと碧惟たちに話しかけようとしているが、答えるのは、もっぱら恭平のようだ。碧惟は、時おり顔を上げてわずかにほほ笑む程度で、ほとんど話さなかった。

(あのほうが、“出海碧惟”っぽい)

 テレビの中のクールなイメージと合う。

 生徒のほうも、ささやかな反応だけで十分なようで、うっとりしたように見つめる人もいた。

 生徒が全員そろったところで、ちょうど開催時刻になった。

 フロントの調理台の前に、碧惟と恭平が並ぶ。

 スラリとした碧惟と、ふくよかな恭平。体型は対照的だが、二人とも顔のつくりは整っていて、見栄えがいい。

 居住まいを正した二人に、生徒たちも椅子に座りながら背筋を伸ばした。
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