料理研究家の婚約レッスン
「芸能人のブログになんか載って、ずいぶん楽しんでるじゃないか。おまえ、今なにやってるんだ」

「……知り合いの会社で、アルバイト」

「アルバイト? いつまで東京になんかいる気だよ。早く戻ってこい」

「……戻ってこい?」

 矢継ぎ早に喋る武に圧倒されていた梓は、そこでようやく不審に思う。

「そうだ。戻ってきたらいい」

「そんなこと武に関係ないよね」

 武が、唇を噛む。

「俺のところに戻ってこいよ」

 梓は、足元がおぼつかなくなるのを感じた。

 瞬きを繰り返して、自分のパンプスを見つめる。どうにか立っているようだ。

「……なに言ってるの、今さら。だって……子どもは?」

「あの女とは、別れた。他にも男がいたんだ」

 だから、梓と復縁したいと言っているのだろうか。謝罪の言葉さえないのに、武は梓が戻ってくるものと疑っていない。

「……そんなことを言われても、困るよ」

 呆れて物も言えないと思ったが、どうにかそう言った。

 わずかに頭を下げて去ろうとする梓の腕を、武が掴む。

「待て」

「やっ!」

 振りほどこうとするが、離れない。武の指が、梓の柔らかな腕に食い込む。

 一年前は自然につないでいた手が、今は怖くてしかたなかった。

(どうしよう……っ!)

「おい、どうした?」

 聞きなれた艶のある声に、梓はすがる思いで振り返る。

「先生っ!」

 最高のタイミングで現れた碧惟は、救世主に見えた。

「嫌がっているように見えるんだが、離してやってくれないか」

「……ああ」

 武の手から力が抜ける。

 梓はサッと腕を抜き取ると、掴まれていた自分の腕を庇いながら、武と距離を取った。

「大丈夫か?」

「はい。先生、どうして?」

「近くで仕事があるから、迎えに行くと連絡したんだが、見てないか」

「気づきませんでした」

「すれ違わなくて良かったな」

 碧惟は何もなかったかのように、ひっそりと笑った。

 それだけで、涙があふれそうだった。

 確認するまでもなかった。碧惟が好きだ。

 武に、未練なんてこれっぽっちも残っていない。碧惟に武との関係を疑われることだけが不安だ。

 梓は、早くここから離れようと、立ち去ろうとした。

「じゃあ、わたしはもう行くから……」

「ちょっと待て。おまえ……もしかして、出海碧惟か? なんで、おまえが梓を迎えに来る」

 梓は、内心しまったと思う。

 武は、碧惟になど興味はなかったはずだ。顔を見てすぐにわかったのは、おおかた湖春のブログから、碧惟を知ったばかりだからだろう。

「もういいでしょ。武には関係ない」

「待てよ、梓!」

「先生、行きましょう」

 梓は碧惟を促して、足早に去った。

 今度は、さすがに武も追ってこない。

「いいのか? 話の途中だったんじゃ?」

「いいんです。昔……知り合いだっただけですから」

「揉めてたろ?」

「たいしたことじゃありません」

 梓がきっぱりと口を噤むと、碧惟は近くに停めていた車に梓を促し、家まで送った。

「誰だったんだ、あいつ」

 家に帰った後、もう一度だけ碧惟が尋ねた。

「昔の……」

 梓は少しだけ躊躇した。

 けれど、わざわざ碧惟に言うようなことではないと結論づける。武と碧惟は、二度と会うこともないだろう。

「知り合いです。湖春さんのブログに写真が載ったから、心配したみたい」

「……そうか」

 それきり、碧惟は武のことを訊かなかった。

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