料理研究家の婚約レッスン
 テレビで見るよりいくらか不機嫌そうな出海碧惟が、眉間にしわを寄せたのを見て、梓は慌てて頭を下げた。

「ウェルバ・プロダクションの河合梓と申します。本日は水上がお伺いできずに、誠に申し訳ございません!」

「出海碧惟です。どうぞ」

 梓が差し出した名刺を受け取り、碧惟は梓を部屋に招いた。ちなみに、名刺を使うのは前職の新人研修以来で、社外の人に仕事で渡すのは初めてだ。

 玄関に入って、また驚いた。

 ドアの大きさから予想はしていたものの、広い。4人程度なら並んで上がれそうなたたきで靴を脱ぎ、すすめられたスリッパを借りる。ふかふかだ。

 先を行く碧惟は、廊下を左へ曲がった先のドアを開く。

 そこは、だだっ広いキッチンだった。アイランドキッチンとは別の調理台が4台あり、壁際にはシンクとガス台が据えられている。

 碧惟は、調理台脇のスツールを梓にすすめた。

「紅茶でいいですか」

「はい! いえ、おかまいなく!」

 スツールの上で跳びはねるようにして、梓が答える。

 声が上ずってしまって、思わず胸に手を当ててしまった。どうにも動悸が止まらない。

 事前に沸かしてあったのか、コンロに火をつけると間もなく、やかんからもうもうと湯気が立ちのぼった。

 碧惟は、手馴れた動作で、ポットに湯を注ぐ。ポットのふたを閉めたところで、なめらかに動いていた碧惟の手が止まった。

 そこまでを、ただひたすらに目で追い続けてしまっていたことに気づいて、梓は急いでカバンの中から書類を出した。弥生に託された企画書だ。

 あの後、弥生からメールで指示ももらった。話すのがつらそうだったので、指示はメールにしてもらったのだ。

 メールなら切れ切れにでも書き込めるので、電話より多少はマシだったのだろう。弥生からは、必要な指示や、これまでの経緯を事細かに共有してもらった。

 おかげでなんとか約束の時間に、碧惟のスタジオまで資料を持ってくることができた。

「水上さんの具合は?」

 茶葉を蒸らす間に、碧惟が口を開いた。

「はいっ! あの……今朝突然、起き上がれないほど具合が悪くなったそうで。這ってでも行きたいと言っていましたが、這うこともできないとか、救急車を呼ぶとか……」

「それは大変だな。大事ないといいけど」

「はい、ありがとうございます。すみません、せっかくお時間をいただいていたのに。水上も、大変申し訳ないと申しておりました。出水さん、いえ、先生にお会いするのを、本当に待ち望んでおりましたのに……」

「いいよ、そういうのは」

「……」

 どうやら、媚だと思われたようだ。本当のことなのに、と梓は思ったが、黙った。

 口答えできるような雰囲気ではなかったのだ。碧惟の態度は、初めから一貫して硬い。紅茶こそ淹れてくれているが、いつ追い返されてもおかしくないような緊張感がある。

(早く帰りたい)

 もう帰ってもいいだろうか。

 博子は謝るだけでいいと言っていた。弥生も、資料を置いてくるだけでいいと言っていた。

 だから梓は、玄関先で謝罪して、企画書を渡したら任務完了なのかと思っていた。

 けれど、あたふたしているうちにスタジオに座ってしまっている。

(やっぱり、帰らせてもらおう)

 そわそわと腰を浮かせたら、碧惟と目が合ってしまった。

(うぅ……怖い……)

 冷静な瞳でいぶかしむように見返されると何も言えず、梓はそっと腰を下ろしてしまった。

「もしかして、手洗い?」

「い、いえ、大丈夫です」

 おなかが痛いふりでもして帰れば良かったとあとから思ったが、もう遅い。碧惟は梓の前にティーカップと自分の名刺を置くと、向かいの席に着いてしまった。

「それが企画書ですか?」

「あ、はい……」

 テーブルに出してあった書類を、碧惟に渡す。

「拝見します」

「え、あの……」

(それなら、これで失礼します!)

「何か?」

「いえ……その……お願いします!」

 また、言えなかった。

 無言でペラペラと企画書をめくり始めた碧惟は、目線は資料から離さないまま、手を軽く上げた。

「説明を」

「……ええと」

「どうぞ?」

 適任者ではないのだと、自分はもう帰るのだと察してもらおうとしたが、碧惟はチラともこちらも見ようとしないので、無駄だった。

 無言の圧力に負けて、というより説明能力のなさにより、梓はしどろもどろ話し始めた。

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