好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
浮かび上がる疑問。
そんなことが気になるなんて今日の私は本当にどうしたんだろう。普段なら、相変わらず気遣いの出来る人だなと思うくらいなのに。どうして今はこんなにも胸が苦しいの。桔梗さんにとったらこんなこと日常茶飯時で、何でもないことなのに。どうして私の頰の熱はひかないの。
袖を捲るため、微かに触れる指先に、手首の裏の柔らかい場所がピクリと震えそうになる。
そんな風に緊張してしまっているのもきっと私だけ。わかっているのに、桔梗さんの顔を正面から見れない。

『藤井』
顔を上げずに歩く私に、桔梗さんが優しい低い声で呼び掛ける。
『ここ、俺のマンションだから覚えておいて』
エントランスの真正面に立って、子どものように屈託なく笑う。裏表もなく純粋に、内緒の自宅を教えてくれる。
『……何でですか?』
『その返事、お前は本当に期待を裏切らないな。必要になる日がくるかもしれないだろ?』
ニッと笑う桔梗さん。ほかの人が口にしたら、際どい会話になりそうなところをさらりと交わす余裕さ。薄紙一枚を挟んだような本音。
『それはどんな日ですか』とは聞けない。
聞かない。聞くことはできない。そこまで、この人に踏み込むことはできない。

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