茜色の約束

部活


 次の日は土曜日だった。
 
 いつもの僕なら、休日を家でのんびりと楽しむのだが、今日の僕は違った。

 今日の僕は学校に足を運んでいたのだ。
 写真を現像するためだ。

 月曜日の放課後に現像しても良かったのだが、志保に早く写真を見せたかった。
 そのために僕は休日を返上したのだ。

 午前にまず、フィルムをリールに巻いた。
 光を少しでも入れてしまうと、そのフィルムは全て駄目になってしまう。そのために光を入れない黒い布のようなものの中で、リールに巻いていく作業を行うのだが、初めてそれをしたときはその作業にすごく時間がかかった。というのも、手元が見えないで行う作業なので、上手く巻けないのだ。

 しかし、一年以上も経てば、スムーズに行えるものだ。
 僕はあっさり巻き終えると、現像タンクに薬液を入れる。時間や温度を気にしながら作業をする。

 しばらくして、ようやくフィルムが出来上がった。

 フィルムを乾かすために、乾燥した場所で吊るす必要がある。
 僕はフィルムを吊るし、よく絞ったスポンジで水滴を除いた。

 そのとき、そのフィルムをまじまじと見た。
 
 たくさんの空の風景がそこにはあった。けれど、一枚だけ違う。
 
 空を見上げて微笑んでいる、志保が写っている。

 フィルムの段階では、白と黒が逆に見える。
 黒い髪は真っ白で、白い肌は黒い。
 それなのに、彼女は美しい。端正な顔立ちが目立つ。


 僕は完全に乾かすために、暗室を後にした。空いている教室で読書をして時間を潰した。
 午後になり、僕はもう一度、暗室に入った。

 僕のフィルムの前に誰かが立っていた。
 僕に背中を向けているので、顔がわからない。その人は、僕のフィルムをじっと見ている。

「すみません・・」
 僕の声に気付くと、その人は振り返った。
 
 黒縁の眼鏡をかけた男の人だった。前髪によって目が隠れていて顔がよく分からない。
 僕と同じ学生服を着ているので、同じ生徒であることはわかったのだが、初めて見る人ではっきり誰なのかは、分からなかった。

「これ、君が撮ったのかい?」
「は、はい・・」
「へえ。ふうん。君が」
 そう繰り返し、僕のフィルムを再び眺めている。
「あの、どちら様でしょうか・・?」
 僕の言葉に再び、その人は振り返った。
「失敬。私は三年の円谷だ」
「はあ」
 男性で自分のことを『私』と呼んだ人に僕は初めて出会い、間抜けな返事をしてしまった。

「もう卒部したのだが、時々、こうして暗室に足を運んでいるのだよ」
「そうでしたか。僕は二年の本庭です」
 僕も自分の名を名乗った。
「このフィルムは本庭くんのものだと言ったね?」
「あ、はい」
「君は空を撮るのが好きなのかい?」
 空だらけのフィルムを眺めながら、円谷先輩は訊いてきた。
「はい。好きです」
「けれど、一枚だけ、違うね」
 志保が写っているものを、彼は言っている。
「そうですね。一枚だけ違います」
 ふむ、と円谷先輩は言い、考えるような仕草を撮った。
「現像してみなければどうも言えないが、君はもっとヒトを撮るべきだね」
 円谷先輩はしばらく黙ったのち、僕を見てそう言った。

「ヒトですか?」
「ああ、そうだ。ヒトを撮ってみるといい」
 
 ヒトは、志保以外撮ったことがない。
 しかもそれも自分の中の何かが勝手にシャッターを押しただけであって、自分の意思ではない。
 僕は自然、特に空を撮るのが好きなのだ。

 この写真部は自由な部活だ。撮るものに指定されたりしない。ならば、僕が何を撮ろうと自由なのではないか。

「もちろん、ヒトを撮るか撮らないかは、君の自由だ。けれど、私は、君はきっとヒトの素敵な一瞬を撮れると思う。それほどの力があると、私は思うよ」
 
 僕の心をまるで見透かしているかのような発言をした円谷先輩は、そのまま暗室を後にした。
 
 僕はただただ驚き、円谷先輩の背中を眺めていた。
 後ろ姿でも分かる、猫背。
 しかし、その背中から何か物凄いオーラを漂わせていた。
 きっと彼は、素晴らしい写真を撮る人に違いない。直感で、そう思った。

 それから、僕はふうと息を吐いた。

 ヒト、そう言って思い浮かぶのは、志保以外いなかったのだ。



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