焔の指先、涙の理由
△2手 完全降伏

初手で三間飛車(さんげんびしゃ)を表明したわたしに対し、女王はのらりくらりと戦型を保留した。
そして、焦らしに焦らした末、ついに飛車をコトリと置いた。
△2二飛車
選んだのは向かい飛車。
使い終わったリモコンをテーブルの上にもどすときのような、あっさりとした手つきだった。

女王はゆったりとお茶を口に含む。
伏せた目はあくまで常温で、さざなみひとつなく凪いでいた。
この人の視界にはわたしなどいない。
当然だ。
なにしろ彼女は女流棋士ではなく、現役の奨励会三段なのだから。

奨励会は男女の別なく門戸が開かれていて、二十六歳までに四段に昇段できれば、女であっても“棋士”になれる。
しかしその狭き門を突破した女性はまだいない。
ところが三井女王は、男性と肩を並べ、史上初めてその指先が“棋士”へ届こうとしていた。

対して“女流棋士”は、将棋の普及や指導といった面を重視されて設立されたため、入り口の棋力は“棋士”より低く設定されている。
その女流のタイトル戦にさえ出たことがないわたしが彼女に勝てるなど、誰も思わないだろう。

(あい)()飛車(びしゃ)は定跡が整備されていないので、すぐに力戦となる。
わたしはこのバケモノみたいに強い人と、地力で戦わなければならないのだ。

三井女王が飛車先の歩を交換した。
このあと飛車をどの位置に引くのかが重要なのだが、彼女は間髪入れずに五段目に引き、横利きで歩を狙う。

『飛車を引く位置、頭わるすぎだとおもいます』

初手合のとき、小学生だったヤツにそう言われたことを思い出す。
本当によく手が見えているクソガキだった。
いつも振り返ることなく、わたしのずっと前を歩いている人だった。



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