しあわせ食堂の異世界ご飯
 山のように積まれた書類にペンを走らせ、確認のサインをしていく。
 気付けば夜も遅く、時刻は深夜を回っている。低い梟の鳴き声を聞きながら、「そろそろ休むか」と書類仕事をしていた男は伸びをする。

 執務机から立ち上がり、思い返すのは昼間の出来事だ。
 外観はどこにでもある普通の、いや――少し寂れた【しあわせ食堂】。一風変わった異国の料理を提供し、ジェーロ国民の胃袋をがっと掴んで話さない。
 まさに、病みつきになってしまう定食屋だ。

「一口食べたらもっと食べたくなる、不思議な料理……か」

 時間の許す限り、味わいたい。
 そんな欲望が、己の中に渦巻いているのがわかる。

 窓越しに街を眺めていると、扉の開く音が響く。
 すぐに振り向くと、暗い青色の長髪を後ろで一つに結んでいる、己の騎士がそこにいた。

「まだ仕事をされていたんですか? リベルト様。そろそろ休まないと、明日に差し支えますよ」
「それはお前も同じだろう? ローレンツ。朝はお前の方が早いのだから」

 心配するローレンツに軽口を叩き、逆に早く寝ろと言う。

「リベルト様のお望みの物を確認してきたというのに、冷たいものですね」
「――!」

 ローレンツはリベルトの執務机まで歩き、その上に調べた書類の束を置く。
 そこに書かれているのは、とある調査書だ。一枚目には、対象となった人物の名前が書かれている。

 アリア・エストレーラ。

「一国の王女が定食屋にいるなんて、誰も思わないだろう……」
「ですが、リベルト様は気付かれたではないですか。昼間、定食屋で男に毅然とした態度をとる彼女を見て」
「……別に、雰囲気が王族のそれに似ていたから気になっただけだ」

 加えて、初めて会ったのがジェーロに向かう森の中というのも引っかかった。他国から来た人間だということがわかっていたので、その可能性が増したのだ。
 決して他意があったわけではないのだと、リベルトは告げる。
 その割に抱きしめてしまったりしたけれど、あれは不可抗力だったのだ。……と、本人は思っている。

「それで、どうするんですか? 彼女は、まだ自国に帰らずジェーロに滞在するとフォンクナー公爵から報告がきていますが」
「……俺の妃になりたいというより、あれは料理をしていたいから留まっているだけじゃないのか?」
「まさか」

 生粋の料理好きのアリアだからこそ、あり得る話だ。
 リベルトもそう思ってローレンツにそう言ったのだが、違う理由がちゃんとあると一蹴されてしまう。

「どうやら、エストレーラ側に問題があってすぐに帰れない状況のようですね」
「エストレーラに?」
「ええ。アリア様の妹君にあたる第三王女の婚約が進められているそうです」
「なるほど。確かにその状況で帰れば、国が混乱するから得策ではないな」

 エストレーラに帰ることができず、妃になるために来たジェーロでは皇帝に謁見することもできない。今のアリアにとって、もしかしたら【しあわせ食堂】が唯一の居場所なのかもしれない。
 思案している自分の主人を見て、ローレンツは口を開く。

「いっそ、アリア様を妃にしてしまえばいいではないですか」
「できるわけないだろう」
「なぜです?」

 いとも簡単に言うローレンツに、リベルトは盛大にため息をつく。そしてどうしてそんな簡単なことがわからないのだと、睨みつける。

「彼女は私の妃候補として、確かにジェーロに来たのかもしれない。けれど、それは決して彼女の意思ではなかったのだろう。でなければ、王城から離れたりしない」
「なるほど……そういうことですか」

 リベルトの言葉を聞き、ローレンツはどうしたものかと悩む。
 というか。

「いい加減、拒否せず妃候補の姫たちとお会いになればいいのでは? 彼女たちだって、リベルト様に謁見すらできず辛い生活をしていますよ」

 少しくらい目を向けてもいいのでは? とローレンツが言うものの、リベルトは決して首を縦に振ろうとはしない。
 いずれは妃をとらなければいけないが、別に今すぐ必要なわけでもない。殺されないように気を付けていれば、そこまで過度の後ろ盾も不要だと思っているほどだ。

「私が彼女たちと仲良くしてみろ。すーぐ、皇帝の座を狙うやつらから毒を盛られるだけだ」
「それは国際問題ですね」
「ああ。だから妃は当分必要ない」

 即位したばかりのリベルトがもっと力を持たなければ、妃を迎えたとしても守れずに殺されてしまう可能性が高いのだ。
 それならば、一人で戦っている方が幾分ましだ。

 ローレンツは机の上に置いた書類をトントンと指差して、「この姫もあきらめてしまわれるのですか?」と問う。

「……別に。あきらめるも何も、元から何もない」
「そうですか? 確かに、冷酷無比と名高いリベルト様はそうかもしれませんね。ですが…………」
「何だ」
「リベルト様はアリア様を切り捨てるかもしれませんが、リントとしてアリア様にお会いしていたあなたは随分と楽しそうでしたよ?」

 ローレンツに言われた言葉を聞き、リベルトはふんと顔を背ける。そんなこと、言われなくても自分が一番わかっている。
 かといって、わかっているからどうにかなる問題でもない。どうしようもないことを言われたって、リベルトには何もできないのだ。

「まさか、リントのままアリアさんに告白しろとでもいうのか? そして、妃候補がいる王城に連れて帰れと……?」

 自分の意志で集めたわけではないとはいえ、己に群がる女と決着もつけられないうちに一人を選ぶなんて、リベルトにはとてもではないができなかった。
 いったいどこが冷酷無比なんだと笑ってしまうが、それは整いすぎた綺麗な外見と、無表情な彼の性格がその噂に拍車をかけているのだ。

「私はもう休む。……ローレンツも、切りを見て休め」
「ええ。おやすみなさい」
「……ああ」

 そう言って、リベルトはローレンツを一人残して執務室を出ていく。
 机の上には未処理の書類がまだたくさんあるが、明日に回しても問題はないだろう。

「私の主人は不器用ですね。あんなに、アリア様に心を開いているのに」

 それを自分で認めることができないのだから。
 小さく呟いたローレンツの声は、静かな執務室に溶けて消えた。
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