記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
14.心のようなもの
五月二十三日 (水)
 朝焼けの眩しさでまぶたを開くと、キッチンの方から油の弾ける心地いい音が聞こえてきた。次いでベーコンの焼ける匂いが鼻の中を通り抜ける。
 すぐに立ち上がりそちらへ行くと、髪を短くまとめた華怜が料理をしていた。振り返った時に僕に気付いて、にこりと微笑む。
「おはようございます。もう出来ますから、待っててくださいね」
「手伝うよ」
 そう言って、冷蔵庫の中から二人ぶんの卵を取り出した。ベーコンが焼けた後、入れ替わりで二人ぶんの目玉焼きを作る。
 今日は華怜の好きな固め焼きだ。
 いつもより長めに焼いた後、皿へ移して盛り付ける。
 居間で向かい合って座り、手を合わせた。華怜も僕に習って手を合わせる。
固めの目玉焼きに塩胡椒を振って、口の中へ入れた。
「どうですか?」華怜が探るように訊ねてくる。
「久しぶりに食べたけど、こっちも美味しいね」また二人で、クスリと笑いあった。
「ベーコンも上手く焼けたんですよ」自信ありげに勧めてきたため、僕はベーコンも口の中へ入れた。
「ちょうどいい焼き加減だね」
「ですよねっ」
 味わって食べていると、華怜がコップにお茶を入れてくれる。それは僕と華怜の大好きな麦茶だ。
「ありがとね」とお礼を言うと、「どういたしまして」と微笑んだ。
 僕にも華怜にも、随分と心に余裕が出来たのだろう。
 どこかで、記憶を取り戻せば一緒には居られなくなると感じていたが、今はそんなことは全然考えていない。
 仮に記憶が戻ったとしても、この関係性に変わりはないと確信したからだ。
 たとえ実家に戻ることになったとしても連絡を取り合って、高校を卒業すれば、またこんな風に二人暮らしをすればいい。
 そうなってしまえば、もう阻むものなんて何もなくなる。
 もしくは、ずっとこのままというのもいいかもしれない。
「公生さん、今日の予定はなんですか?」
 食事が終わって一緒に皿を洗っている時、何気なく質問してきた。
 昨日の今日だから大学を休んでもいいかと思ったけれど、華怜は変に真面目なところがあるため、許してはくれないだろう。
「午前中には講義があって、午後は一コマ終われば休みだよ」だから、午後からなら遊びに行ける。
 華怜はパッと笑顔を作った。
「じゃあ、午後は遊びに行きましょう」
「いいね、どこに行きたい?」
「どこに行きたいですか?」
「華怜となら、どこにでも」
 歯の浮くようなセリフだったけれど、笑ってくれた。言ってるこっちが恥ずかしくなる。
「じゃあ、あの大きなお城に行きませんか?」
「お城?」
「学校へ行くときに、バスの中から見えたんです」
 そう言われて、なるほどと思い至った。
 もう二年はここに住んでいるからいつもの風景に溶け込んでいたが、華怜にとってはとても珍しいものだったのだろう。
 城下町デートというのも悪くない。
「そこ、遊びに行こうか」
「はいっ!」
 元気のいい返事を聞いた後、皿を洗って部屋を出た。
 女の子の支度は時間がかかる。それを、僕はこの短い間で理解した。
 空でも眺めて時間を潰していようと考えていると、隣の部屋のドアが開く音が響く。
 ドアの隙間から、寝間着姿で髪をボサボサにした先輩が顔を出した。
「はよー小鳥遊くん」
 いつも思っていたのだけれど、この人は女性であることの自覚が欠損している気がする。そんなことを言ったら怒られるから、黙っているけれど。だけど、逆にそういうところは先輩の良いところだと思う。
 これも、先輩に伝えたりはしない。
「おはようございます先輩。今起きたんですか?」
「んや、今寝るとこ」
「……大丈夫なんですか?」
「やることやってたから。私夜型の人間なんだよね」
 何をやってるのかは知らないけれど、きっと大切なことなのだろう。
 先輩はこう見えて、というより表向きはちゃんとしっかりしている。大学では男女問わず人気を集めているため、こんな姿を見られたとしたら幻滅してしまうかもしれない。
 その姿を僕に見せているということは、心を開いてくれているのだろうか。はたまた、全く興味がないのか。
「それよりさ、小説はどう?」
 昨日までなら憂鬱な質問だったが、今日の僕はまっすぐ答えられた。
「また、頑張ってみようと思います。実はいくつかお話が思い浮かびまして」それはもちろん華怜のおかげだ。
 先輩はニコリと微笑む。
「何かいいことがあったみたいだね」
「はい」
 また、まっすぐ答える。
「小説は作者の心みたいなものだと私は思うよ。面白くないって言われれば傷つくし、面白いって言われれば嬉しくなる。自分の心をさらけ出すのは怖いことだと思うけど、勇気を出して頑張ってみなよ」
 先輩の言う通り、勇気を出して頑張ってみるつもりだ。自己完結で済ませてきたけれど、華怜は面白いと言ってくれたのだから。
 これからは、たった一人、華怜のために書くのもいいかもしれない。そんなことを思った。
 先輩はぽりぽりと頭をかいた後、いつも通り手を上げて部屋へ戻ろうとする。
 だけどタイミングよく僕の部屋のドアが開いて、その隙間から華怜が顔を覗かせた。今日は白色のワンピースを着ている。
 僕を見て微笑んだ後、先輩の「おはよ、華怜ちゃん」という声を聞いた華怜は、途端に表情をしかめた。
 どうしたのかと思っていると、突然僕は腕を掴まれて部屋の中へと連れ戻される。
 バタンと勢いよくドアを閉めたかと思えば、今度は勢いよく抱きついてきた。僕は鈍いけれど、その行動の意味はなんとなく察しが付いた。
「どこにも行かないから」
 頭を撫でてあげると、安心したのか腕の力が若干弱まる。
 華怜は人一倍寂しがりやだから、先輩と話している僕を見て不安になったのだろう。
 つまり一種のヤキモチみたいなものだ。
 自惚れている様に見えるけれど、たぶん合っていたのだと思う。
――華怜は僕のことをどう思っていたのか、実のところすごく気になるけれど。
「……浮気ですか?」僕は苦笑する。
「浮気じゃないよ」
「証拠」
 僕は迷ったが、昨日と同じく華怜にキスをした。これなら納得してくれるだろう。
 と思ったけれど、キスをしたあと華怜はぷいっと顔を背けた。
「こいつなら、キスしとけばなんとでもなるって思ってませんか?」少し図星だったのが痛い。
「あの人にも、私と同じこと……」
「それはないから」
 キッパリと断言して抱きしめた。華怜の勘違いで仲違いをするなんて、そんなのは悲しすぎる。勘違いさせてしまった僕も悪いけれど。
 きつく抱きしめたおかげで、腕の中の華怜が安心して微笑んだのが伝わってきた。
「信じてますよ」
「うん」
「今の私には、あなたしかいないんです」
 僕はその言葉の重みを胸に刻みつけた。
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