Monkey-puzzle
黒縁眼鏡と対峙






夜の雨は、今までの全てを洗い流すかの様に、一晩中降っていた。

何度も何度も確認したスマホの渋谷とのトーク画面はウンともスンとも言わないまま朝を迎えて、カーテンを開けた先の空は雨が降ったのが嘘みたいな青空が広がっていた。


「…はあ。」

どんよりしているのは、世界で私だけ?


『じゃあ、俺と付き合ってよ』


あの時、橘さんの言葉に引きずり込まれそうになったのは本当。橘さんは本当に人間的にも男性としても素敵な人だと思うから。

そんな人から、あんな風に言われたら誰だって揺らぐよ。

だけど、橘さんには誠実でいたかった。
叶わずとも渋谷と居たいと言う想いが自分の中にある限り、好意に甘えてはいけないんだ。


「…はあ。」


会社に向かう道すがら渋谷から貰った靴を履いて来てしまった自分に向けてまた溜め息を吐き出した。


『真理さんまたね』

…拘っているのは私だけなんだろうな。きっと、渋谷の中では私の事はもう気が済んでいるんだろうし。

渋谷…田所さんと本当に仲が良かった。付き合うとか…そう言うことになった時、私はどう思うんだろう。


「…はあ。」
「そんな溜め息ばっか付いてると誰かにお持ち帰りされるけど。」


横に現れた人影が左手の指を絡めとった。

し、渋谷?!


「ちょ、ちょっと…!あんた何してんの?!」
「何って?普通に出勤だけど。」


手、離さないと!
振り払おうとしたら力を込められてそのまま二人でブランブラン…。

「小学生じゃないんだからさ。そんな『ルンルン』みたいなのはさすがに恥ずかしいよ?」

楽しそうに含み笑いをする渋谷を睨んだ。


「離して。会社の誰かに見られたら…」
「別にいいでしょ?うち、社内恋愛禁止じゃないし。」


嫌われ者の私は特別だって。渋谷に変な噂が立ったらどうするのよ。


「だ、大体、…一日一緒に居たら私から離れるって…きゃあっ!」


説得に入ろうとした所を不意に引っ張られて、ビルとビルの間の人気の無い狭い路地へと押し込まれた。


「真理さん、一日って何時間?」
「え…?24時間…」
「待ち合わせして、水族館行って飯食って…どう考えても24時間なんて経ってない。」
「そ、そんなの…ヘリクツ…」
「何とでも言ってよ。24時間まであと数時間は残ってんだから。」


腰に腕が回って来て引き寄せられて、耳朶に渋谷の唇が触れた瞬間、身体が熱を持った。

渋谷のメガネのフレームが頬に触れてカチリと音を立てる。


「今日も似合ってる、その靴。気に入ってくれて嬉しい。」

「こ、これは履き易かったから…ってちょ、ちょっと渋谷っ!」


言い訳を阻止するかの様に舌先が耳を這う。柔らかくも生暖かいその感覚に身体が強ばって胸元を強く押したら、余計に腰から抱き寄せられた。


「ねえ、智ちゃんにちゃんと送り届けてもらった?」
「う、うん…。」


…後ろめたい。

や、でも…ちょ、ちょっと頬にキスをされただけだしね?
『付き合ってよ』と言われたけどちゃんと断ったしね?


「渋谷が田所さんと帰っちゃったから…。そうなったら、橘さんだって私をポツンと残して帰るわけにはいかないから気を遣ってくれたんだよ?
べ、別にね?いいんだけどね?その…田所さんと仲がイイとか…さ。」


ああ…すごく言い訳がましい。しかも自分の行ないを棚に上げて田所さんとの事をチクチクと。
嫌なヤツだな、私。

至近距離でジッと私を見つめる渋谷が何度か瞬きをした後で嬉しそうに笑った。


「な、何…?」
「いや?…妬いたんだなーって思って。」


なっ?!
顔が熱を一気に帯びた。


「ち、違っ…んんっ」


乱暴に唇を塞がれ、突然息苦しさが襲ってきた。
互いの舌が絡まりあう感触に頭の中で考えていた昨日の映像は隅へと追いやられて行く。
少し向こうの大通りの行き交う人や車の音は渋谷の少し荒い吐息の音に消されて、暫くの間、目の前の彼の存在が全てになった。


…私、いつからこんなにこの人が好きだったんだろう。
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