美術部ボーイズ
3
お気に入りの本を、ばらばらにされたのは五年生の時だった。
授業が全て終わり、図書委員の当番で時間を費やした後、帰ろうとしていた。カバンを取りに教室に戻った時、床に紙が散乱しているのに気がついたのだ。先生のプリントが風で飛ばされたのか。取り敢えず、気づいてしまったので片付けておこう。そんな軽い気持ちだったが一番近くに落ちていた紙の一枚を手に取ったとき、全身から血の気が引いていくのが分かった。見慣れたセリフ。自分が憧れた文章の書き方。挟んでおいた筈の栞。信じられなかった。
そんな馬鹿な。こんなん、嘘やろ。
鞄に飛びつき、本を入れているスペースを覗き込む。そこには、何も入っていなかった。
落ち着け。夢だ。これは夢なんだ。何度言い聞かせても、事実は覆しようがなかった。
必死で何軒もの本屋を回ってやって見つけた本。大体のセリフを覚えてしまうほど、何回も何回も読み返した本。今まで読んだどの物語よりも、感情移入しながら楽しんで読めた本。そんな大切な本は、もう原型を留めてはいなかった。
「あれ?どうしたん?その本」
翌日、まだあまりクラスメイトが来ていない静かな教室でその本を読んでいると、同じクラスで幼なじみの北園晃英が顔をのぞきこんできた。晶が手にしている、歪に曲がった文庫本を見て顔をしかめる。
「うわっ、ボロボロやん。まじで、どうしたん、それ。お前って、そんなに物の管理が下手くそだったっけ?」
「管理が下手くそなんじゃなくて、修理が下手くそなだけや」
「はあ?」
本は、あの後ページを全て集めてテープで一枚一枚止めた。時間を大分費やし、かろうじて本の形にはなったものの、大分歪になってしまっている。しかし、捨てようとは思わない。本がバラバラにされているのを見たあの時の気持ちを忘れたくはなかった。
修理する所でも、あったのかと晃英は前の席に勢い良く座った。背もたれの上に顎をのせ、足を揺らす。
「ちょっと、事情があってな」
「どんな事情があったら、そんな事になるんだよ。まあ、おれには関係ないけど」
心の底から興味がなさそうに言って、違う方向を見る。このさっぱりとした性格が、クラスの人気者になれる理由なんだろうと、ぼんやりと思う。
昔から、さっぱりとしたものが好きだった。食べ物、性格、人間関係……。何でもこざっぱりしていて、自分が付き合っていて疲れないものが良い。ねちねちと絡みついてくるものは、どんなものでも嫌いだ。それが、人間関係だったらなおさら嫌になる。もっと、いいやり方があるだろう。なぜ、それが出来ない。心底、面倒くさい。
「晶?どうしたん?」
再び眉を潜めて、晃英が問うてくる。少しかぶりを
振った。
「別にい」
「じゃあ、何でそんなに本を握りしめとん?」
言われて初めて、跡が出来るほど本を強く握っていることに気がついた。急いで離し、笑みを浮かべながら手を振る。
「何もない。少し力を入れすぎとっただけや」
「そうかあ?凄い顔しとったけど」
「マジ?どんな顔、しとった?」
「何か、誰かを恨んでますって顔」
「何やそれ。全然、分からんわ」
言いながら顔をそらす。
当たっていた。恨んでるまでとは、流石に言わないが当たっている。許せないのだ。お気に入りの本をボロボロにした誰かをずっと憎んでいる。誰か分からない。実態がない。それでも、許さない。誰を憎み、許さないと唸っているのかも分からない状態で、確かに憎んでいる。暗闇の中を一人で歩いているような状態だ。
背筋に悪寒が走る。自分が誰もに好かれているなど、傲慢な自信はもちろん持っていない。しかし、ここまであからさまにやられたのは初めてだ。誰かの怒りが。悪意が。恨みが。確かに自分に向いている。怖い。生まれて初めて体験した怖さだった。
「まあ、何か困ったことでもあったら言いよ。聞くから」
晃英が口を開けて笑う。思わず一緒に笑っていた。嬉しかったのだ。こんな風に味方になってくれる人がいるのなら、少々のことでも耐えられる。本気でそう思っていた。
今思うと、バカだった。笑顔の裏に、凶悪な感情が潜んでいることをまだ知らなかった。人が一番怖いということを理解していなかった。無知で、馬鹿で、信用しすぎていた。どれだけ仲が良くても、いざとなると何するか分からない。それを実感したのは、少し肌寒くなった秋の校舎裏でだった。



晃英が東北のほうに引っ越す。
それを聞いて一週間ほど経ったある日。放課後、校舎裏に来てほしいと晃英から声がかかった。もう少しで引っ越すはずだ。何か、言いたいことでもあるのだろう。そう考えていた。
校舎裏には、無数に植えらた金木犀の香りが漂っていた。オレンジ色の小さな花をいっぱいに咲かせ、甘い芳香を出している。その木の下に、晃英は立っていた。
「お待たせ。待った?」
「すげえ待った。何で、こんなに遅いんだよ」
「ごめん、ごめん。掃除が長引いたんや。で?何の用?」
晃英の口に笑みが浮かんだ。不遜で、刺々しく、初めて見る笑みだった。顎を引く。今まで共に過ごしてきた幼馴染が、不意に恐ろしく思えた。
そんな晶の心の声を見透かしたように、晃英はゆっくり近づいてきた。一歩一歩を踏みしめるように、イライラするほど遅い動作で、しかし確実に晶との距離は短くなる。決して目を逸らさなかった。アイコンタクトは苦手だが、目を逸らすと負けてしまいそうな気がする。何に負けるのかは分からない。それでも、目を逸らしてはダメだと脳が警告していた。
晶の目の前に晃英が立つ。自分より数センチほど高い場所にある顔を真っ直ぐ見つめる。晃英も、晶の目を真正面から凝視する。濁りきった目をしていた。幼い頃の綺麗な澄んだ目は汚れ、鋭い眼光を持つ目に変わっている。気付かなかった。学校や休日でいつも一緒にいるのに、全く分からなかった。
こいつ、いつの間にこんな目に。
「あの本」
「はあ?お前、今何て」
「あのボロボロの本は、まだ持ってるんか」
「ああ、当たり前やろ。よっぽどのことがない限り、あれは捨てへん」
「へえ。おれが頑張って一枚ずつ切ったやつを、そんなに大事にしてくれるなんて本望だな」
一瞬、目の前が真っ暗になった。ようやく視界がクリアになってくると、晃英の顔が眼球に映る。笑っていた。片頬を上げ、さも戸惑う晶を見るのが楽しそうに笑っている。息が詰まった。思考回路が停止し、何も考えられない。
「驚いた?引っ越す前のサプライズ。最高でしょ」
陽気な口調で喋りかけてくる。ふいに破壊的な感情が奥から上がってきた。
殴りたい。蹴りたい。もう一生、喋れないようにしてやりたい。
唾を飲み込む。そうしたら、いくらか心が落ち着いた。喉から絞り出すように声を出す。
「お前からしたら最高やろな。で?何でこんなこと、した?」
「決まってるでしょ。お前、ムカつく」
晃英の顔が歪む。息を荒々しく吐き出した。
「小さい頃からずっと嫌だった。すぐからかうし、お前が頭いいせいで比べられて怒られて。最悪。お前の幼馴染なんか辞めたいって何度も思った」
「やから、嫌がらせしたっていうわけか」
「そう。おれはこういうの考えるのはお前に負けへん。引っ越す前に今までやりたかったこと全部やろうと思ってな。すっきりしたわ」
耳障りな笑い声を上げて、晃英は背を向けた。その無防備な後ろ姿を傷つけたい思いを、かろうじて我慢する。その代わり、言葉を浴びせる。嫌味や皮肉を言うのだけは得意だ。
晃英、お前は嫌がらせを考えるのが得意だと言ったよな。こっちにだって、負けないことはあるんだよ。
「何や、今までやりたかったことをやってすっきりするって。他にもするべきことは、いくらでもあるやろ。ほんま、お前アホやわ。幼稚園児レベルやわ。おれに比べられても無理はないわ」
晃英の足が止まる。何も言わないが、肩がほんの少しピクリと動いたのは見逃さなかった。思わず唇の端を上げる。可笑しい。ちょっとの嫌味を言うだけで、動揺している。脆いやつだ。感情がすぐに顔や体に出るのは昔から変わってない。
なあ、本当のことを言えよ。比べられて嫌だとか、おれの幼馴染をやめたいだとかペラペラ嘘ばっかり喋って。それで、このおれを騙せると思ったのか。低く見られるようになったもんだな。
せせら笑う。口から出た笑いは、驚くほど弱々しく掠れていた。
「お前はおれのどこに腹たっとうんや。ほんまに頭か?そんなん、努力したらええやろ。スポーツやって、人気やってお前のほうが上や。おれがお前に勝っとうやつのほうが少ないで。何にお前が負けとんや。そろそろ、はっきり─」
最後まで言えなかった。苦痛で顔が歪む。苦しい。息が出来ない。は、と声を出すと同時に汗が額を流れる。晃英は晶の襟元を掴みあげた手に、ますます力を込めた。
「はっきり言えって……ふざけんな……。おれがどれだけ我慢してきたか………知らないくせに言いたいこと言いやがって………。おれがどれだけ宮田さんを好きだったかも知らないで!」
ああ、そういうことか。
妙に納得する。そして、こんな状況で納得できる自分に感心する。
宮田かのんは、晶のクラスで生活委員をしていた。美人というよりも愛嬌のある顔立ちをしており、ぱっちりと大きく綺麗な目を持っている。賢く、勉強を教えてくれる優しさから男女問わず人気があったはずだ。
去年の二学期あたりだっただろうか。その宮田が、晶のことを好きらしいという噂が立ったのだ。すぐにその噂は鎮まり、晶も大して気にしなかったのだが晃英は覚えていたらしい。
そんなしょうもないことで、大事な本を傷つけられたのか。呆れたせいで怒りの感情さえも、どこかに消えてしまっていた。
「お前がいなかったら……上手く付き合ったりできたかもしれないのに……。お前のせいで………」
一瞬、晃英の力が弱まる。それを見逃さず、晶は思っきり体を後ろに引いた。圧迫感がなくなり、喉に空気が入るのが分かる。少しむせたが、声はちゃんと出た。晶より息が絶え絶えになっている晃英を押しのける。
「邪魔や」
何も言わずに晃英がよける。唇をかみしめて俯いている顔に優しく笑いかける。
「おれは今好きな人はおらん。宮田さんが好きなんやったら告白でも何でもしたらええ。まあ、もっとも」
息を吸い込む。冷たい秋の空気が美味しかった。
「すぐに引っ越すけどな」
背を向けて歩き出す。決して振り返らない。晃英の顔や濁った目をもう見たくなかった。
あれからだ。人を信じられなくなったのは。晃英が遠くに行った今でも時々夢を見る。あの笑顔も、襟元を締め付けてきたあの力も、何一つ忘れていない。鮮やかに脳裏に蘇ってくるのだ。そして、同時に忘れてはいけないと思う。今の自分があるのは、あの事件があったからだ。忘れない。人間の裏の顔を、本当の世界を初めて見た日だ。忘れられない。
ベッドの上で目を閉じる。昨日の夜、夜更かししたせいですぐにまどろみが襲ってくる。暗闇に引きずり込まれる直前、まだ幼い晃英の綺麗な目を見たような気がした。
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