記憶がどうであれ

16話

「君は妻とは全く違う…違い過ぎる。
だからきっと今でもあの男と妻は深い関係にはなっていないんだろうな…」
 彼はそう考えて、何を思うのだろう。
 安心しているのか奥様を哀れに思っているのか…
 でもそんな想像をしても本当のところは解らない。
 …だけど彼が私よりも奥様の方が女として上だと評価していて、しかも違いすぎると口にするほど私は酷いと言われたのはハッキリ解った。
 見た目だけで人間は恋愛するの?
 違うでしょ?
 実際、理由は解らないけれど、元主人は私を選んでくれたのに。
「…私はそんなにダメな女ですか?」
「違うっ!!!違うんだ…
君は真面目で面白みはないのかもしれない。
華やかさも妻とは比べ物にならないだろうと思う。だけど、君が妻より劣るという事では無い」
「嘘ばかり言うのね…」
 私に嫌われたいのなら、そうだと一言でいいのに。

「俺は妻の美しさが好きだったんだ…
初めて見た時、頭の先からつま先まで、それこそ髪や瞳の輝きや声まで、本当に美しいと思った…全てをそんな風に思った人は初めてだった。
…だけどそれは芸能人を好きというのと同じなのかもしれない」
「結婚できた人と芸能人は違います」
「そうだな。
妻の為に稼いで貢いで…自分への見返りは笑顔一つで満たされるくらい、結婚できて本当にのぼせ上っていた」
「そこまで…」
「結婚前から子供は産む気は無いと言われていた。
妻が居てくれるのならそれでいいと思うほど妻だけが欲しかった」
 そこまで誠心誠意心を預けても簡単に切り捨てられた彼は可哀想な人だ。
「もう、忘れたらどうですか?」
 難しいだろう。
 だけど、彼に奥様との未来はきっと無い。
「一から人生をやり直せたら…と思った。
いつまでもこんな自分じゃダメだと。
君とこのまま付き合い続けることも考えた、でも妻の存在を君が知った時付き合い続けて行けるわけがないと思った…
最後にあの男と君が何故別れたのか知りたくなったのは、あの男が君を今でも思っているのかを確認するためじゃないし、妻と不倫していたのかを探る為なんかじゃないんだ」
「じゃあ、何故です?」
「君の事…君の過去も知りたくなったんだ。
だけど、聞かなければ良かった。
これからの君を支えて行くことが出来ないのに…あんな話し聞かなければ良かった。
ただ酷い事を言って嫌われて別れれば良かった…」
 あんな話しとは記憶喪失で私が捨てられたという事実?
 …私は被害者で可哀想な女だと同情しているの?

 彼の表情は憐れみを帯びている。
 私が恋した彼の笑顔をもう見ることはできないのだろう。

「…好きでした。
貴方の事、好きだから私は付き合ってきたんです」
「俺も思いがけず心地よい時間を与えてもらって感謝してる」
 右手を前で差し出す彼。
「貴方を許すことはできません。だから…ごめんなさい。
きちんと気持ちを整理して前へ進んでください。
さようなら」
 私は手を握り返すことなく頭を下げて彼へ背を向けた。
 その時、彼が私の手首を引く。
「最後だ…最後にもう一度だけ…」
 先ほどの憐れみの表情ではない。
 色気漂う強い視線が私を捕らえる。それが合図だった。

 今までの彼からのこの行為が元主人への嫌がらせだと知っていても、私は受け入れた。
 それは、彼を好きだったから。
 好きでも無い人に抱かれていた訳じゃないと証明したかったから。
 彼を許せないけれど、好きだった気持ちは本物だったのだと。
 許せなくても、すぐに彼を嫌いにはなれない自分の弱さを自分で受け止めたかった。
 そして…
 彼に焼きつけたかった。
 私という女を。
 馬鹿な奴だったと思われてもいい。
 ただ、忘れないで。
 私とこうして抱き合ったことを。
 忘れないで。
 例え記憶を無くす日が来ても。
 私とのことまで忘れないで。
 自分を「好き」と言った女の事を。

 私の行動もまた元主人への復讐心からなのかもしれない。

「ありがとう。
俺を本当に好きになってくれた初めての人は間違いなく君だ。
君と一緒にいること、本当に好きだった。
前へ進めと励ましてくれてありがとう。
君も俺の事なんて忘れて幸せになって欲しい…」
 彼の声は涙声だ。
「忘れない…貴方も私を忘れないで」
 何度も交わす熱。
 このまま終わりがこなければいいだなんて、私はやっぱり馬鹿な女なのだろう。
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