君のいた時を愛して~ I Love You ~
 待合のロビーの椅子にサチを座らせ、コータは一人で清算と検査の予約を取りに向かった。
 大量の書類を渡され、検査の日は一日休みが必要で、コータはシフト表で休みを確認してから検査の予約を入れた。
「すいません。あの、もし適合して移植となった場合はどうなるんですか?」
 コータの問いに、担当のスタッフが説明してくれた。
「検査は、あくまでも検査なので、適合が確認できた後は、同じようにドナーの方は二日程度のお休みを取っていただく必要があります。それから、移植のための入院の際には、既定の金額を上乗せした入院費用を前もってお支払いいただきます」
 前もって支払いをする必要があるという説明に、コータはどきりとしてゴクリと音がするように唾液を飲み込んでしまった。
「最近、お支払いをされないで勝手に退院される患者さんや、退院後に連絡が取れなくなってお支払いのないままとなる方がいらっしゃるので、手術全般、特に移植手術をされる方には、当院では全員にお願いしています」
 そう説明されると、『支払いを待ってもらえるか』や、『分割で納めさせてもらえないか』というコータの抱えている質問は口に出すのも憚られた。
「こちらが、骨髄移植の入院前に収めていただく費用になります」
 金額を目にした瞬間、コータの耳からすべての音が消えた。
 女性の口は今まで通り、スムーズに動いていたが、音は何一つ聞こえなかった。それだけ衝撃的な金額が紙には書かれていた。
 バイクや車も持たないコータにとって、それは衝撃以外の何物でもなかった。それは、およそコータが目にすることのない桁の数字で、万でも、十万でもないことはカンマの撃たれた位置で理解することはできた。
 音のない世界で、女性の口だけがスムーズに動いていた。

「資料をまとめてお渡しいたしますね」
 やっと音が戻ってきたのは、女性が資料を封筒に入れ始めた時だった。
「あの、一時金の資料は結構です」
 妙に口の中が乾いて、コータは自分がひどく緊張しているのに気付いた。
「ですが・・・・・・」
 何かを言いかけた女性の手からコータは資料をもぎ取った。
「家内には、絶対に一時金のことは知られたくないんです。自分の収入が低いせいで、入院や移植を躊躇しているのに、一時金があることを知ったら、治療に消極的になってしまいますから」
 コータが一息に言うと、女性は一時金について書かれた資料をカウンターの上に置いた。
「一時金のことは病棟は知りませんから、入院の受付の時に再度説明がありますから、その点だけはご理解ください」
「わかりました」
 コータは答えながら、ゼロの並んでいた一時金を脳裏に刻み込んだ。
 この金額を見れば、サチが入院どころか、唯一の延命の希望である骨髄移植を拒むことは明らかだった。それ故に、コータは絶対にこのことをサチに悟られてはいけないと、そう心に誓った。しかし、だからと言って数百万という金額が右から左に用意できるはずもなく、コータは内心途方に暮れていたが、それをサチに悟られないように明るく振舞った。


「お待たせ、サチ」
 待合室に迎えに行くと、サチは疲れているのか椅子の背に身を任せ、転寝(うたたね)していた。
「サチ、疲れた?」
 コータがもう一度声を掛けると、サチはゆっくりと目を開けた。
 その朧な瞳は、白血病という病魔によって確実にサチの体が蝕まれ、その命の火がかき消されようとしていることを如実に物語っていた。
「大丈夫だよ、コータ。なんか、病院に来ると眠くなっちゃうの」
 サチは言うと、『よっこらしょ』と言わんばかりに、億劫そうに肘置きをしっかりとつかんで立ち上がった。
 そんなサチの姿を見ながら、コータは自分には何もできない虚しさに涙が零れそうだった。この世界のだれよりも大切で、誰よりも愛しているサチの命の火が病魔によってかき消されようとしているというのに、なす術もなくただ寄り添うほかないことが狂おしいほどに辛かった。
「帰りに、何か美味しいものでも食べて帰ろうか?」
 コータの提案に、サチはすぐに頭を横に振った。
「どうして?」
 これほどまでに疲弊しているサチに夕食を作らせたくはなかったし、コータ自身、この心理状態でまともな料理ができる気がしなかった。
「今日、沢山お金を使ったから、もう無駄遣いはダメだよ」
 サチは自分に言い聞かせるように言った。
「別に、美味しいものが全部フランス料理みたいに高い訳じゃないだろ」
 コータは言うと、前から一度行ってみたいと思っていた場所を思い出した。
「でも、美味しいものは高いでしょ?」
「でも、便利なものも安く買える」
「なに、それ? 意味が分からないよ」
 困惑するサチに、コータはサチの手を引いて目的の場所を目指した。
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