休みの日〜その夢と、さよならの向こう側には〜
39.幸せなこと
 今日は梓の誕生日だ。僕は彼女よりも早く起きて朝食を作った。簡単なものしか作れないけど、梓にはとても感謝しているから、今日くらいは休んでいてほしい。

 目玉焼きとベーコンを焼いていると、居間のドアがそろそろと開き、梓がこちらへとやってくる。僕の隣に立ち止まって、恐る恐るといった風に話しかけてきた。

「夜に言ったことだけど……」

 一度言葉を区切り、梓は用件を僕に伝える。

「今でも、悠くんは服飾の道に進むべきだと、私は思うの。眠るまで、ずっとそのことを考えてた。何が一番、悠くんにとって幸せなのか」

 僕にとって一番幸せなこと。そんなの、決まりきっている。それは梓のことを支えて、一緒に幸せになることだ。

「顔、洗ってきなよ。もう朝ごはんできるからさ」

 そう言って梓の言葉を無視すると、彼女は僕の腕を掴んで、今までより険しい声で言った。

「ねぇ、聞いて」
「聞いてるよ。夜も聞いた。もう、無理だって」
「無理なんかじゃないよ。私だって、美大に入るのに二年も足踏みしたもん。今服飾の道を目指したって、遅いなんてことない」

 僕はコンロのつまみを回して、火を止めた。それから小さく息を吐いて、彼女を見つめる。

「どうして、そんなに僕に服飾の道を目指してほしいの」

 そう訊ねると、梓は間髪を入れずに答えを返してきた。

「悠くんが、私のことを応援してくれてるから。私は、嬉しかったの……悠くんのおかげで、前に進めることができたから。今も辛いけど、絵を描いてるのは楽しい。目標があるから、楽しいんだと思う。その楽しさを、悠くんは教えてくれた。だから進むべき道に、進んでほしい」

 そんなことを考えてくれていたのかと、僕は胸が熱くなる。どうしてもっと、梓の気持ちを考えられなかったのか。彼女の気持ちに寄り添っていれば、あんなに消極的な反応なんて、絶対しなかったというのに。

 けれど梓の気持ちを素直に受け止められない理由も、僕にはちゃんとあった。それを僕は、伝えた。

「叶うなら僕は、ずっと梓のそばにいたいんだよ。二年足踏みしても、遅くないってことはわかった。でも、専門学校を卒業するなら三年後、大学を卒業するなら四年かそれ以上先に就職することになる。就職しても販売員にしかなれないかもしれないし、それじゃあ給料が低くて梓を支えられないんだ。そんなリスクを踏むなら、今の大学を出ていい企業に就職した方が、絶対に将来が安泰なんだよ」

 それに、奨学金の返済だってある。いい企業に入れなければ、梓のお父さんやお母さんが認めてくれないかもしれない。現実的に考えて、それ以外の選択肢なんてない。

 梓は僕の告白を聞くと、一瞬瞳が揺れたかと思えば、すぐに俯いてしまった。わかって、くれたのだろうか。

 しかし返ってきた言葉は、僕の予想もしていなかったものだった。

「……重い」

 梓のその冷たい声に、僕の胸の鼓動が酷く早まる。彼女はもう一度、ハッキリ呟いた。

「重いよ……私、そんな先のことなんて、考えられない……」

 僕は、放心したように固まってしまう。少し冷静になってみれば、自分の発言がどれだけ重いものなのか、理解できたはずだった。僕らはまだ、付き合って半年ほどしか経っていない。それなのに将来の話をするなんて、笑ってしまう。
初めてできた彼女だから、舞い上がってしまった。ただ、幸せにしてあげたいと思った。そんな純粋だと思っていた気持ちは、相手からしてみれば、ただの押し付けにすぎない。

 せっかくの梓の誕生日だというのに、互いの間に流れる空気は最悪なほど冷え切ってしまっていた。少し、頭を冷やさなければ。そう思い「ごめん……」と謝罪する。そして、しばらく考えさせてほしいと言おうとしたが、彼女はそれよりも先に居間の方へと引っ込んでしまった。

 怒っているのだろうか。俯いていて、その表情をうかがい知ることはできなかった。仕方なく朝食を作るのを再開させるが、しばらくすると梓はまた居間から出てきた。その彼女の肩には、お出かけ用のミニバッグが下げられていて、いつのまにかパジャマから外出用の服に着替えていた。

「ちょっと待って、どこか行くの?」
「家出」

 梓はそれだけ言うと、玄関で靴を履き始めた。さすがに僕は慌てて、彼女の腕を掴んで引き止める。

「朝ごはん、もうできるんだけど」
「離して」
「ちゃんと話聞かなかったのは謝るから。少し、考え直してよ」

 彼女にそう懇願したけれど、振り向いてはくれない。ここにきてようやく、僕は焦りを覚えてきた。

「梓、ごめん……」
「怒ってないから」
「怒ってるよね……?」
「怒ってない」

 梓はようやく、こちらを振り向いてくれる。その表情からは、怒りの様子は見受けられなかった。

「少し、距離を置いたほうがいいと思うの。私も、たぶん悠くんも、そうしないと頭が冷えないから」

 一度決めたその意思は、ここで僕が何かを言ったところで曲がりそうになかった。だから僕は早々に諦めてしまい、梓の腕を離してしまう。

「……それじゃあ、どこ行くの?」
「友達の家」

 それだけしか、教えてくれなかった。探さないで、ということなのだろう。梓は靴を履き終えると、何も言わずに扉を開けて出て行ってしまった。

 どうして梓の話を、真面目に取り合わなかったのか。どうして自分本位な考え方をしてしまったのか。

 付けっぱなしだった火を泊めて、梓のために作った朝ご飯を一枚の皿の上にのせる。本当なら、笑いながら一緒に食べるはずだったそれは、もう黒く焦げてしまっていた。

 残すのも悪いため、僕は一人で二人分の朝食を食べる。少し前までは一人で住んでいたはずなのに、梓のいなくなってしまった部屋は、やけに広く感じられた。
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