休みの日〜その夢と、さよならの向こう側には〜
42.幸せになってね
 翌日、梓は言葉通りに僕の部屋へとやってきて、大きなカバンの中へ服や本などを詰め込んでいる。その彼女の後ろ姿を、僕はただ黙って見守っていた。

 自分の部屋から持ってきたコートをカバンの中へと入れて……けれど僕のプレゼントしたそれは、いつまでも衣装棚から取り出さない。持っていかないのかと、聞きたかった。けれど、聞いたところで意味がない。

 別れた男のプレゼントしたものなんて、身につけるわけがないのだから。実際、水無月は最初こそ僕のプレゼントしたマフラーを巻いてくれていたが、告白をして振られてからは一度も巻いている姿を見かけなかった。きっと、捨ててしまったのだろう。それについて僕は憤りを覚えてはいないし、仕方ないとさえ思っている。

 かける言葉をたくさん迷った僕は、結局梓を引き止められるセリフを用意することはできなかった。

「……お酒、あんまり飲みすぎないでね」

 一瞬だけど、梓の手が止まる。けれど小さく「うん……」と返事をした後に、またすぐ荷造りを再開してしまう。

「……絵、描き続けてよ。梓が夢を見つけるの、応援してるから」

 また、梓の手が止まった。このまま、時が止まってしまえばいいのにと強く思う。けれど時間は容赦なく過ぎ去って行き、彼女からもらった時計は今も時間を刻み続けている。

 今すぐに、時間を止めてしまいたかった。

 梓は、またポツリと呟く。

「……どうして?」

 それは、もう恋人同士じゃないのに、どうして応援してくれるのかということだろうか。そんなこと、あの出会った日からすでに答えは決まっていた。

「初めて梓の絵を見た時、あの絵に恋をしたんだ。だから、梓の絵をみんなに好きになってほしいと思った。ずっと絵を描いていてほしいって思った。夢を、見つけてほしいって思ったんだ……」

 恋人だからとか、そんな理由じゃない。ただ純粋に、僕は梓の絵をこれから先も見ていきたいと思った。だから夏休みの半分を、彼女の絵を見ることに費やした。

 僕の気持ちは、少しは伝わってくれたのだろうか。それ以降、梓は何も言わなかったし、僕も何も話したりしなかった。彼女の私物は次々と僕の部屋からなくなっていき、ただ甘い香りだけが部屋の中に残る。

 いや、違う。

 残されたものは、彼女の残り香と、僕のプレゼントした赤いコートだけだった。結局最後まで、梓はそれを持っていってはくれなかった。

 全ての荷物をまとめ終えた梓は、ゆっくりとその場から立ち上がり、こちらを振り返らずに言った。

「……今まで、本当にありがと。こんなどうしようもない私に、時間を割いてくれて」

 そんなことは、言ってほしくなかった。梓はとても魅力的で、むしろ僕にはもったいないほどで、どうしようもない僕に多くのものを与えてくれたんだから。彼女のおかげで、少しは自分に自信を持ちたいと思った。また、夢を追いかけたいと思えるようになった。誰よりも僕を受け入れてくれたことが、何よりも嬉しかった。

 そんな、伝えきれないほどたくさんの感謝の言葉は、もう二度と梓には届かない。

 最後にドアノブへ手をかけて、梓は言った。僕はその言葉を聞いて、彼女がいなくなった部屋に戻った時、堪えきれずに涙を流した。

「幸せになってね」

 他の誰よりも、一緒に幸せになりたいと思った女の子は、もう僕の目の前からはいなくなっていた。




 それから三日間、僕は部屋の中へ引きこもり、怠惰な生活を送っていた。休みの日が終わっても大学へ行くことをせずに、アパートからコンビニまでの道を往復するだけの日々。

 アルバイト先の店長には、仕事を辞めることを伝えた。もう別れてしまった女の子の前に顔を出せるほど、僕の心は据わっていない。突然辞めてしまうことを店長は怒るかと思ったが、むしろ僕のことを心配してくれた。

 お金に困ったら、またいつでもアルバイトに来てもいいからと。もし就職先が見つからなかったら、うちにおいでとも言ってくれた。電話を切った時、僕はまた不甲斐なさで涙が溢れた。

 この三日間、梓の脱ぎ捨てていった服もマフラーも、なるべく僕の視界にいれないようにしていた。それを見てしまえば、思い出してしまえば、途端に悲しみが襲ってくるから。

 けれど、いつから向き合わなきゃいけないとわかっていたから、たくさん悲しんだ後に僕は、再び立ち上がる決心をした。

 梓は僕の未来のために、別れを決心してくれたから。それが僕にとって何よりも悲しいものだったとしても、僕の大好きな君が決めたことだから。前に進まなきゃいけない。たとえ一人でも、進む先が灰色一色だったとしても。

 僕は再び、部屋のドアを開けた。心の中はいつまでも雨が降っていたけれど、秋の空はどこまでも青く澄み渡っている。

 僕は今、人生の分岐路の只中にいた。
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