その身体に触れたら、負け ~いじわる貴公子は一途な婚約者~ *10/26番外編
 そのほんの一、二時間まえのこと。

社交シーズンもそろそろ終了間際となる夏の夜会に、オリヴィアは父親とともに出席していた。目の前では楽団の演奏に合わせて、紳士淑女がダンスを楽しんだり、談笑している。

 父親はしばらく誰かを探すように視線をめぐらせ、その人物を見つけるとエスコートの腕を外した。

「私はコーンウェル公と国境警備の件で話がある。お前はしばらく好きにしていなさい」

 オリヴィアはほっと頬をゆるめる。では壁際でじっと息をひそめるか、続きの間で軽く食べ物をつまもう。
 社交場は苦手なのだ。怖いと言ってもいい。

「ただし、先に帰らぬように。まだお前が挨拶をすべき相手がいるからな」
「どなたでしょうか?」
「すぐにわかる。それまで待っていなさい」
「……わかりました」

 いかめしい表情の父親にしぶしぶうなずき、オリヴィアは深い森を思わせる色のドレスに目を落とした。華やかな飾りも凝った刺繍も何もないけれど、流れるようなドレープを描くカッティングのおかげで彼女の雰囲気をより神秘的に魅せるドレスだ。けれどいつもは彼女の装いに口を出さない父親が、なぜか眉間に皺を寄せた。

「今日ぐらいは、もう少し派手なドレスにした方が良かったかもしれん」

 父親はぼそりとつぶやくと、彼女が返事をする前に背を向ける。オリヴィアは怪訝に思いながらも歓談中の人々のあいだを縫って壁際まで移動した。

 踊るという行為は純粋に好きだったし、得意な方だ。けれど踊りのあいだ、相手の視線──頭のてっぺんから爪先までを舐め回すようなものや、明らかに含みのある熱を帯びたもの──、にさらされるのが、あるときから怖くなった。

「あら、珍しいですわ。オリヴィア様がいらっしゃるわよ。今日も口説こうとしてくださる殿方を凍らせるのかしら」
「ちょっと綺麗だからって勘違いなさっているのよ。デビューして三年目でしょう?普通ならもう結婚が決まっている時期なのに……ねぇ?」

 すぐそばに置かれたソファに令嬢が二人、横目でオリヴィアをちらちらと伺いながら話を弾ませている。抑えているようでも高い声のせいで彼女にも筒抜けだ。

「御覧になって、あのドレス。なんて野暮ったいのかしら。よくあれで参加できたものですわね。やっぱり田舎におられるからかしら。それともオリヴィア様自身の目が凍っているのかしら」
「『氷の瞳』ですものね。でもほら、フリークス家は、裕福では……だから仕方ないですわ」

 くすくすとひそやかな笑い声まで聞こえる。たまに社交場にでると決まったように受ける陰口。オリヴィアはそっとため息をつく。
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