いつか、きみの空を。
壊して、壊さないで





真夜中に目が覚めることが増えた。

一月も終わりに近付いて、年明けからテストのためにバイトの休みを取っていたせいか馴染んでいたリズムが崩れ、最近は寝付いてから絶対に一度は目が覚める。

水でも飲もうかと部屋を出ると、リビングの明かりが廊下に漏れ出ている。


友紀さんが帰ってきているのだろう。

時間を見ていないからわからないけれど、まだ明け方には遠い時間とはいえ、朝も早いはずの友紀さんに一言声をかけるつもりでドアノブに手を置いたとき、聞こえてきたのは友紀さんの声ではなかった。

久しく耳にしていなかった、けれど、聞き違えることはない葵衣の声。


どうしてわたしの寝ている時間に帰ってくるの。

たまたまこの時間しか空いてなかったのかもしれないという可能性を捨て、避けられているのではないかと勘繰ってしまう。


ノックもせずにドアを開けたら、葵衣はきっと驚く。

友紀さんを巻き込むのは忍びないけれど、久しぶりに帰ってくるのに一報も入れなかった葵衣への些細な報復だから許してほしい。


すう、と深呼吸をして、ドアノブに手をかけたとき、中から聞こえてきた会話にふと耳を澄ませたのが間違いだった。


「だから、そう。三月末には出て行こうと思う。それまでは今のバイト先の人に世話になるから」


何のことを話しているのかわからないほど、葵衣を知らないわけじゃない。

一年も家を空けて、わたしに何も言わずに帰ってきて、真夜中に友紀さんに報告をするのがそんなことだなんて。


「金は、本当にいい。貯めてる分があるし、通信制の学校でも奨学金は受けられる」


「でも、お姉ちゃん達のお金くらいは……」


「それもいい。花奏は進学するんだろ? 全額、花奏にやって欲しいんだ」


家を出るという決断が行動に移るまでの時間と自由は、葵衣の方が際限なく選択出来ることはわかっていた。

わたしは学生だけれど、葵衣は今、どこにもいないから。

それだけだ。わたしは葵衣の何も知らない。

心だけではなく、その行動の意味も。


「……なに、それ」


掠れた声は、ちょうど葵衣と友紀さんが黙った瞬間に零れた。

数秒置いて、慌てたような椅子を引く音と足音の後、内側からドアが開けられた。


「花奏……聞いてたの……?」


焦り顔をしているのは友紀さんだけで、その背中越しに見えた葵衣はこちらに視線をやるでもなく、真っ直ぐに背筋を伸ばして、目を伏せていた。


「花奏? ちょっと、葵衣。あなた、また嘘吐いてたの?」


「……嘘?」


友紀さんの言葉に一番に反応したのはわたし。

『 嘘 』という言葉には過敏になってしまっているのだ。


もう嘘は止めようって言ったのに。

わたしには葵衣に言えないことがあるから、隠し事は見ないフリをするけれど、嘘だけは止めよう、と。

わたしが一方的に突き付けた条件だけれど、葵衣はすべてをひっくるめて首を縦に振ったはずだ。


わたしの見ていないところで嘘を重ねていたのだとしたら。

これほど辛いことはあるだろうか。

だって、その嘘はきっと、わたしのための嘘。


苦しまないように、悲しまないように、わたしが探した最善さえも潜り抜けた葵衣に嘘を吐かせて。


「花奏、少し話そう? 葵衣もちゃんと説明しなさい」


悲しみと恥ずかしさと情けなさと怒りと、色々なものが渦巻いて、それでも葵衣を見つめ続ける。

友紀さんの手が肩に置かれて、わたしが葵衣に詰め寄らないように止められているのがわかる。


そんなことをされなくても、葵衣の元へは行かない。

胸ぐらを掴んだって、肩を揺さぶったって、意味なんかない。


「兄妹なのに、どうして」


あれほど嫌だった言葉が、葵衣には決して吐かないと決めた二文字が、叩き付けるような勢いで葵衣へと向かっていく。


精神論では人を守ることは出来ない。

葵衣がそれを証明した。


わたしが燻って足掻いてもがいている間に、葵衣も同じように溺れていたのだろう。

わたしが、見上げた空を綺麗だと思える余裕のある浅瀬で水面を揺らしている間、葵衣はずっと海底に近い場所で暗い空を見ていた。


与えられた点と点を手探りで繋いでいく。


葵衣がこれまでずっと、アルバイトの掛け持ちをしてまでお金を貯めていたのは、進学のため。

友紀さんからの金銭的な支援を一切断ろうとしているのは、迷惑をかけないため。

両親が残したお金に手を出さないのは、わたしのため。


この家から出て行こうとするのは、どうして?

あと一年もすれば、わたしからこの家を出て行くということは伝えていた。

ちょうど一年越しに、わたしと同じタイミングでここから離れようとするのには、理由があるのだろうか。

一年もあれば、人の考えや道は変わる。

わたしが出て行くから葵衣は戻ってきて、と言ったあのときに葵衣は頷いたけれど、変わってしまう可能性は十分にあった。

変わることが、いけないのではない。

目の前で繰り広げられた会話の意味が、何一つわからない。


頭の中は冷静なはずなのに、情報量が多すぎて整理しきれない。

新しい情報を拒絶するように、友紀さんの声がどこか遠くに聞こえていた。


滲む視界から葵衣が消えてしまわないように瞬きをせずにいたのに、境界面を超えて溢れ出した雫が友紀さんの腕に落ちる。

それでも葵衣はわたしを見なかった。


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