Piano~ピアノ~
Piano:交わる想い③
***

 あれからずっと、叶さんのお迎えは続いている。

 ストーカーがつけてくるのが閉店時のみだと分かっても、諦めてつけてこなくなっても、叶さんが次の日の予定を言ったり俺が訊ねたりして、一緒に帰宅していた。

 そのうちに夜のお迎えが日常化して、俺の中では大切なひとときになった。

 この状況が一変したのは三ヶ月後、大学四年の春のある日。叶さんの家で課題をやっていたその日は何だか落ち着かなくて、とてもハラハラした。

 叶さんの様子が、明らかにおかしい――

 いつも通り会話をしているんだけど、イジワルに発展するであろう箇所なのに、普通の会話にしているのである。絶対におかしい……。試しにワザと突っ込んでくれそうな会話を投げかけるが、またしてもスルー。

「叶さん、どうしたの?」

 わざとらしく顔を覗きこんでみる。途端に機嫌が悪くなる表情が、心情を隠しているみたいに感じた。

「君に心配される覚えはないから。ちょっと仕事が忙しくて、ダルいだけだし」

 忙しい……ね。たった数ヶ月だけど毎日会っているから、嘘だと直ぐに分かった。

 忙しいという言葉は叶さんの魔法のアイテムで、何かを誤魔化すときによく使う。俺も見くびられたものだなぁ。

「叶さん、俺でよければ相談にのりますよ。何かあったんですよね?」

「年下の頼りない人に相談してもね……」

 自嘲的に笑って、また誤魔化そうとする。

「叶さんどうして、そんなことを言うんですか? ワザと俺を傷つけるような発言して、自分を傷つけてる」

 笑っている叶さんに対して、プンスカしてやった。

「どうせ俺は頼りない年下ですよ。叶さんを支えたいと思っても、支えきれないと思ってるから相談してくれない」

「そんなこと……ない」

 切なげな表情を浮かべながら、俯く叶さん。

「賢一くんに余計な心配かけたくなくて……。君の気持ちを知っていながら、こうしていつも甘えてばかりだし」

「叶さん……」

 切なそうな目。今にも泣き出しそうな顔をしている。

「プライベートなことで、何か悩んでるでしょ」

 当てはまりそうなことを口に出してみた。

「例えば、恋愛のこと……かな?」

 まさやんと同じ瞳をする叶さん――諦めなければならない恋をしているんじゃないのか?

「何で、そう思うの?」

「俺のアテにならない勘……」

「そう、賢一くんに分かっちゃうくらい、態度に出ていたんだ」

 どこか観念したように告げたセリフが、胸に染み込む。叶さん、やっと話してくれるのかな。

「私の片想いなんだ。諦めなきゃいけない恋なんだけど、ずっと諦めきれなくて、ね」

 そう言うといきなり、俺をぎゅっと抱き締めてきた。顔を見られたくないのか、肩に額を乗せる。

 腕ごと抱き締められているので話を聞く以外、俺からは何もできない状態だった。

「そろそろ踏ん切りをつけなきゃいけないって分かってるんだけど、なかなか……ね」

「うん。気持ちの整理をつけても、うまくいかないものです」

 そんな叶さんに片想いをしている俺も同じく、諦めがつかないからよく分かる。

 しがみつくように俺を抱き締める腕に力が入ってきた――もしかして泣いてる!?

 羽交い締めされているので、慰めたくても涙を拭うことすらできない。困ったなぁ……。

 そう思ったときに、叶さんが肩から顔をあげた。

「プッ! 何その、ヒョットコみたいな顔っ」

 俺を抱き締めたまま大爆笑する。困り果てた俺の顔がそうなっていたらしい。

「だって叶さんがこんな抱き締め方をするから、何かしたくてもできないじゃないですか」

「何かって、またイヤラしいことを考え――」

「ちっ、違いますよ」

 大声で全否定! 本当にそんなことを微塵にも考えていないのに……。日頃の行いがこんな場面で発揮されるとは。

「じゃあ、こうしてあげる」

 今度は上半身に腕を回してくれたので、俺も叶さんを抱き締めることができた。

「何か落ち着く」

「はい……」

「嘘ばっかり。心臓の音、かなり早い」

 そりゃあね。大好きな叶さんを抱き締めているんだから、しょうがないじゃないか。

「俺、叶さんがその人を忘れられるまで待ってます」

「えっ!?」

 叶さんをぎゅっと抱き締める。

「話を聞いたり、こんな風に抱き締めることしかできない頼りない俺だけど、いつまでも待ってます」

「こんな私でいいの?」

 潤んだ目で、じっと俺を見つめる。

「叶さんじゃないと駄目っす」

「賢一くん……」

 俺は叶さんから手を離した、そろそろ限界。誘うような視線から目をそらして、あちこちを見てやり過ごすしかない。

「叶さん、そろそろ離れないとヤバいです……」

「賢一くんとなら、いいよ」

 ソラ恐ろしいことを口にされても、ねぇ。

「だっ、ダメっすよ。好きでもない男と、一夜を共に過ごすなんて」

「今夜、彼を忘れさせて」

 うるうる瞳の上目遣い口撃に、俺は撃沈しそうになった。欲望の限界まであと少し……。

「賢一くんの想いを、私にちょうだい?」

「こ、こんなことをしたら、絶対に後悔し――」

 またしても口封じされる俺の苦情。離れようともがく俺を強引に押し倒して、更に深く唇を合わせてくる。

 俺は決心した。

 他の人を好きな叶さんを、まるごと受け止めよう――いつか俺だけを好きになってくれるまで、彼女の支えになろうって。

 この日叶さん家で、一晩過ごすことになった俺。

 これって、体だけの関係なのでは……。

 そう思ったが、隣で幸せそうに眠っている叶さんを見たら、どうでもよくなってしまった。
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