Piano~ピアノ~
Piano:想い合う心
「それでは良いお返事、期待してますよ」

 商談相手に握手されながら言われて、俺は反射的に微笑み返す。

「それじゃあ俺、外まで見送るから、そこで待っててくれないか。詰めて話がしたい」

「分かった」

 商談が一段落して、はーっと溜め息をついた。

 まさやんってば会社ではよくキレてるのに商談とか宴会になると、何であんなに口が達者なんだろう。俺を売り込むのに、誇大広告もいいトコだよ。

 正座で待ってると疲れるので胡座にしようと体勢を崩した時に、スラッと障子が開いた。

「早かったね、まさや――」

 言いながら障子を見たら、なぜか叶さんがそこにいるではないか。

「賢一……」

「叶さん……」

 愕然としながらも、思わず立ち上がってしまった。何でここに、叶さんが来たんだろう。







 バリッとスーツを着こなしている賢一を見て、私は泣きそうになった。その悲しみをグッと堪えながら、周りを見渡す。

 どうやら商談は終了しているらしい。時間が早まったの?

「何しに来たんですか? 俺、今から仕事があるんです」

 眉間にシワを寄せながら、強い口調で言ってやった。

(久しぶりに会う叶さん、少し痩せたかも……。外に出る時は必ず身なりに気を付ける人なのに、髪の毛はボサボサしているし、スーツも着崩れてる)

「賢一、この仕事から手を引いてくれない?」

〈久しぶりに会う賢一、私を拒絶してる。いつもなら叶さんって言って、包むような眼差しを向けてくれたのに……〉

「何で仕事のことに口出しするんですか? 叶さんは全然関係ないのに」

「自分が今、何をしようとしているのか分かってるの?」

「それはこっちの台詞です。何も知らない人に、とやかく言われる筋合いはないっ!」

 まるでまさやんくんのような物言いに、うっと言葉が詰まる。別れてからまだそんなに日が経ってないのに、賢一の変貌ぶりが辛かった。

 いつもなら、私がやり込めていたのに……







 強気な叶さんが、今は何だか弱々しくみえる――

 ここに入って来た瞬間から、泣き出してしまうんじゃないかと思うような顔をしていた。離れている間に、何かあったんだろうか。

 そんなことを考えていたら、急に叶さんが俺に抱きついてきた。

「賢一……」

 絞り出すような声に、心がざわざわと乱される。

 それを悟られないようにすべく、叶さんの両肩に手を置いて引きはなそうとしたが、離れてくれる気配はなかった。

「迷惑なんです、いい加減にして下さい」

「…………」

「ここで仕事があるって、さっきから言ってるじゃないですかっ!」

 静かに声を荒げる賢一に、体がビクッとなった。抱き締めている賢一の体からは、拒絶しか感じられない。懐かしくて愛しい、ぬくもりのはずなのに――

 私は観念して、賢一から手を離す。

 安堵の溜め息がしたので見上げると、賢一と視線が絡んだ。目を見開いて私の顔をじっと見つめて、頬に右手親指を押し当てる。優しいその手に、そっと触れてしまった。

「泣いてる叶さん、初めて見た……」

 泣かせているのは俺のせい? 以前は俺が泣いてたのに。

 心がグラグラ揺らぐ。涙を拭った手を、顔から離すことができない。添えられている叶さんの手が冷たいのも、原因のひとつだった。

 沸き上がる感情をぎゅっと抑える。このまま流されては駄目だ。

「叶さん、帰って下さい」

 涙を拭っていた手を強引に下ろした。その手に添えられていた叶さんの手も、力なく外される。

 俺は両手に拳を作り、奥歯を噛み締めた。横を向いて、叶さんから視線を外す。

 見ていられない、涙が滝のように流れている顔。

「今、元に戻ったら、同じように傷つけ合うだけです。だから帰って下さい……」

 胸がきしむ――頼むから早く、俺の目の前から消えてくれ。

「……えばいいんだ」

 小さな嗚咽の中から何か聞こえた。視線だけ叶さんに向けると、泣きながら俺を睨んでいた。

「仕事なんか……会社なんか、やめちゃえばいいんだっ!」

 そう言って、俺にすがり付く。

「私が賢一を養うから……もう辞めて……」

「叶さん……?」

 叶さんらしくない滅茶苦茶な発言に、かなり驚いた。いつだって冷静沈着、俺を掌に乗せていたあの叶さんが今はいない。

「養ってどうするんだよ。俺がそれで幸せになれると思ってる?」

「賢一がいないとダメだって、痛いほど分かったの。傍にいて欲しい……」

 力が抜けたのか膝をついて泣き崩れる叶さんを、俺は見下ろした。どうすれば、この状況を乗り切れるか。それを頭の中で素早く考える。

「……いいですよ」

「えっ!?」

「叶さんが俺の傍にいて欲しいときは、傍にいてあげます。抱いて欲しいときは、抱いてあげますよ。それで満足なんでしょう?」
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