秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

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 神田堂のガラス戸が開いたのは、瑞葉が出かけて十五分ほど経った頃のことだった。

「おう、おかえり、瑞葉。意外と早かった……な?」

 てっきり瑞葉が帰ってきたものと思って居間から顔を出した蔡倫の表情が、疑問に固まる。土間に立っていたのは予想していた瑞葉ではなく、息を切らせた菜乃華だったからだ。
 いや、それだけではない。

「どうしたってんだ、嬢ちゃん。ボロボロじゃねえか」

 菜乃華の格好を目にした蔡倫は、改めて目を剥いた。

 蔡倫が驚くのも無理はない。今の菜乃華は、本当にひどい格好だった。服や長い髪は埃まみれで、スカートの下に穿いたタイツは膝のところに大きな穴が開いている。

 ただ、菜乃華は自身の格好を構うことなく、泣き腫らしたと見える赤い目からさらに涙を流した。もはや立っていられなくなったのか、その場で力なく床に膝をつく。俯いた菜乃華の目から零れた涙が、土間に染み込んでいった。

 一方、突然泣き始めた菜乃華に、蔡倫もわけがわからないまま大慌てだ。

「おいおい、どうした、嬢ちゃん。急に泣き出したりして」

 心配した様子で駆け寄ってきた蔡倫に、菜乃華は何も答えられないまま、どうにか手に持っていた本を差し出した。破損してしまった、瑞葉の本体だ。

 瑞葉の和本は、本当にひどい有り様だった。背を綴じていた糸は千切れ、表紙は大きく裂けている。それにいくつかのページが、痛々しく破れていた。一目で危険とわかる壊れ方だ。
 瞬間、蔡倫の目から戸惑いが消え、その表情は真剣なものに変わった。

「こいつは、瑞葉の和本だな。嬢ちゃん、一体何があった」

「わたし、さっきそこでトラックにはねられそうになって……。そしたら、瑞葉が『危ない!』って。それで、わたしの代わりに瑞葉がはねられて、この本が壊れちゃって……」

 俯いたままの菜乃華が、か細い声で途切れ途切れに事情を話す。ただ、はっきり言って彼女の話は滅茶苦茶だ。混乱と焦燥の所為か、説明の体を成していない。

 しかし、蔡倫は見せられた本と合わせて、大体の事情を察してくれたらしい。蔡倫は手にした瑞葉の本を見つめ、重々しく息を吐き出しながら、「そうか……」と呟いた。

「どうしよう、蔡倫さん……。瑞葉の本、こんなことになっちゃって。それに、瑞葉の姿も消えちゃったの。呼びかけても……何も返事を……してくれないの……」

 両手で顔を覆った菜乃華が、声を震わせながら訴える。

 瑞葉がこうなってしまったのは、自分の所為だ。菜乃華の頭の中を、自責の念が駆け巡った。
 自分が鍵を忘れなければ。トラックが近付いていることに気付いていれば。瑞葉が呼び掛けてくれた時、すぐに逃げることができていれば……。いや、そもそもはねられたのが自分であれば、どんなにましだったか。
 後悔ばかりが募り、菜乃華は人目を憚ることなく泣き続ける。

 すると突然、「泣くな、馬鹿者!」という張りのある大声が、菜乃華の耳を打った。
 驚きのあまり、反射的に顔を上げる。声の主である蔡倫は腕を組み、毅然とした態度で菜乃華を見下ろしていた。

「今は後悔する時ではない。お前には、まだできることがあるんだ。顔を上げてしっかり前を見ろ、神田菜乃華!」

「蔡倫さん……」

 呆然とした面持ちで、声を張る蔡倫を見上げる。その姿は菜乃華を叱りつつも、励ましてくれているようで……。初めて見る蔡倫の威厳ある立ち姿に、菜乃華は心強さを感じながら涙を拭いた。そして、自分の足でしっかりと立ち上がる。

「ごめんなさい、蔡倫さん。わたし、弱気になってた……」

「いや、オイラの方こそ、大声を出して悪かった」

 すまねえな、と謝る蔡倫に、菜乃華は首を振った。
 謝られる謂れなんて、ありはしない。蔡倫の一喝のおかげで、少し落ち着くことができた。蔡倫の言う通り、まだ自分にできることがあるならば、後悔している暇はない。
 奥歯を噛み締めることで表情を引き締め、瑞葉の本を手にした蔡倫を見据える。

「蔡倫さん、教えて。瑞葉は今、どんな状態なの?」

「危険な状態であることは確かだな。だが、本の中から、あいつの息吹を感じる。まだ、助けることはできるはずだ」

 蔡倫が、瑞葉の和本に落としていた視線を上げ、菜乃華と目線を合わせる。

「それでどうする、嬢ちゃん。幸いなことに、年の瀬の今は高天原の門が開いている。今考えられる選択肢は二つだ。高天原の神に預けるか、それともここで嬢ちゃんが直すか。神田堂の店主として、嬢ちゃんが決めてくれ」

「……うん」

 蔡倫に選択を迫られ、菜乃華は固く唇を噛み締めた。

 提示された二つの選択のうち、どちらを選ぶか。そんなこと、本来であれば迷う必要もないだろう。神田堂店主として冷静に決断を下すなら、菜乃華は身を引くべきだ。

 無論、和本の修復については、菜乃華も一通り勉強してある。瑞葉に習って、鍛錬も重ねている。それでも、今回はあの瑞葉が姿を保てなくなるほどの破損だ。瑞葉を確実に助けたいなら、高天原にいる神様に頼るのが一番に決まっている。そんなことは、菜乃華が一番よくわかっている。

「わたしは……」

 けれど菜乃華は、すぐに決断を下せなかった。一刻を争う事態に直面しているとわかっていながら、最善の決断を口にできなかった。

 頭ではわかっていても、心がその決断を拒否する。冷静かつ妥当な判断に、異を唱えてしまう。なぜなら、菜乃華も本心では、自分の手で瑞葉の本を直してあげたいからだ。

 実力的には、高天原の神様の足元にも及ばない。それは重々承知している。それでも、今回だけは他人任せになんてしたくない。瑞葉が自分を助けてくれたように、自分も瑞葉を――世界で一番大好きな人を、この手で助けたいのだ。

「……すまねえ、嬢ちゃん。オイラ、また意地の悪いことを言っちまった」

「え?」

 理性と感情の間で葛藤する菜乃華の耳に、蔡倫の謝罪の言葉が響く。

「もし嬢ちゃんが自分の手で直したいと思うのなら、その気持ちに正直になれ。きっと瑞葉も、それを望んでいるはずだ」

 菜乃華の気持ちを見透かすように、蔡倫は言葉を紡いでいく。

 最初からそうだった。蔡倫の目に映る瑞葉は、いつだって菜乃華のことを信頼し、その成長を喜んでいた。蔡倫は、それをよく知っている。
 ならば、今ここで眠り続ける瑞葉が望むことは何か。答えは一つだ。

 蔡倫は、菜乃華を安心させるように気楽な笑顔を見せる。

「あいつのことだ。『菜乃華の成長の糧になれるのなら本望』ってくらいのこと、平気で言ってのけるぜ。逆に、嬢ちゃんが誰かに自分を預けたら、それだけでがっかりするかもしれねえ。あいつの期待に応えてやるのも、粋ってもんだろう。それにオイラとしても、できることなら瑞葉の本は嬢ちゃんに直してもらいたい」

「でも、もしもわたしが失敗したら、瑞葉がいなくなっちゃうかもしれない。わたし、そんなの耐えられないよ」

 菜乃華の口から、思わず弱音が漏れてしまう。本心では「わたしがやる」と言いたいのに、冷淡なもう一人の自分が不安を煽って、素直になれない。
 すると、蔡倫は「いなくなんてならねえよ」と力強く断言した。

「嬢ちゃん、お前さんが惚れた男は、そんなに軟(やわ)じゃねえ。お前さんを置いて、簡単にいなくなったりしねえ」

「蔡倫さん……」

「第一、はっきり言って今の嬢ちゃんなら、一発アウトの失敗なんてしねえよ。仮に完全修復ができなかったとしても、応急処置と呼べるレベルの修復はこなせるはずだ。それならそれで、十分に儲けもん。危機を脱した状態で、瑞葉の本を高天原へ持っていけるじゃねえか」

 蔡倫が、目を丸くする菜乃華の肩に手を置いた。

 このサルの坊さんは、菜乃華なら必ずできると太鼓判を捺したりはしなかった。発破をかけつつも「応急処置でも十分だ」と、菜乃華に完璧を求めなかった。過度な期待で押し潰さないよう、その上で菜乃華が前向きに物事を考えられるよう、最大限に配慮してくれたのだ。さすがに長い時間を生きているだけあって、人の心を整える方法というものをよく心得ている。

 同時に、菜乃華の瞳に光が灯った。一歩を踏み出そうとする意志の光だ。
 自分が好きになった瑞葉は、これくらいの破損に負けるような付喪神じゃない。そんな強い瑞葉に鍛えてもらった自分も、ここで何もできないほど軟な店主じゃない。完璧は無理でも、できることは必ずある。

 菜乃華の中で、想いが形を成していく。
 恐怖は、いつの間にか乗り越えていた。もう、情けない泣き言は出てこない。表情を引き締めた菜乃華は、実にフラットな感覚でこの言葉を口にすることができた。

「わかりました。わたし、やってみます」

「おう! そうこなくっちゃな」

 にこりと笑った蔡倫に、真剣な面持ちで一度頷く。
 そうとなれば、善は急げ。早速、修復に必要な道具を準備に取り掛かる。いつもは瑞葉と一緒に行う作業だが、今日は一人きり。不安はないと言えば嘘になるが、きっと大丈夫だという自負はある。

「お前さんはサエばあさんの意志と力、そして瑞葉の技術を受け継いだ、立派な店主だ。自信を持て。そんで、自分の持てる力を存分に発揮しろ」

「はい。任せてください!」

 背後から聞こえる蔡倫の声に、はっきりとした口調で答える。
 菜乃華にとって一世一代の大きな仕事が、幕を開けた――。
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