水竜幻想

孤月

厨で寝ていたはずの常葉が次に目覚めたときには、屋敷に戻っていた。竜胆があるところを見ると、おそらく初めにいた場所と同じだろう。
見覚えのある袿が身体にかけられており、光を通す蔀からは暖かな風が入ってくる。

常葉は大きく伸びをすると、また袿を戻して表に出た。階の下には、草履が揃えられている。
はっとした常葉は、自分の足裏を確認して複雑に顔を歪めた。砂粒ひとつついていない、きれいなものだったからだ。
 
まさか、竜神が手ずから清めてくれたということはないだろう。しかしこの屋敷に来てから、彼以外の人は未だ目にしていない。

庭に降りた常葉は、桜があったほうとは逆に屋敷を回る。
すると緑濃い草木の一部が、徐々に色付きはじめてきた。 

見渡した限りでは、どうやらこの屋敷は山の奥深くに建っているようだが、不思議なことに、周囲を四季に彩られているらしい。
 
燃え盛る炎のごとき紅葉《もみじ》の下で、常葉は一枚の葉を拾う。赤子の手のひらに似た紅い葉を、自分のそれに重ねた。

カサ、カサ、と不規則な音が聞こえて、常葉は視線をさまよわせる。大木の枝の間を飛び回る山雀《やまがら》を見つけて得心した。それは椎の実が落ちる音だったのだ。
 
実り豊かな秋に顔がほころぶ。
常葉は思い立ち、積もる枯れ葉を掻き分ける。すると造作なく、秋の味覚を探り当てることに成功した。

腰布に乗せきれないくらいに採れた茸を厨に運び、笊を掴んだその足でとってかえす。

澄み渡る青空の雪景色を抜け、梅の香に後ろ髪を引かれながら、若葉が萌える春の庭にやってきた。
地面にしゃがむと、野草を摘みはじめる。
まだ若い芽はやわらかく、きっと菜飯にしたらおいしいだろう。塩漬けにしておくのもいい。

常葉は満面の笑みで、いっぱいになった笊を抱えて厨へと戻った。


二十年にも届かない常葉の人生だが、これほどの満腹を覚えたことははない。
供物の中には、人々が身を削って工面したものもあるに違いない。

それを、竜神でなく自分ひとりの胃袋に収めているという後ろめたさは、飢えの記憶が薄れていくにつれ、次第に大きくなっていった。
< 9 / 29 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop