初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
夕食もダイニングではなく私室で摂ったアレクサンドラは、ベッドに横になり枕元に飾られた花を見つめていた。
 気に入らないロベルトの従兄だと思うだけで腹立たしい相手なのに、そんなアントニウスに絶体絶命、人生最大の秘密を知られてしまった自分が無様で、悔しくて、情けなくて、アレクサンドラの目からは涙があふれていった。

(・・・・・・・・こんなことで泣くなんて、やっぱり僕も女なんだ・・・・・・・・)

 そんなことを考えていると、昼間の突然の口づけが思い出され、アレクサンドラはますます悲しく、惨めな気持ちになっていった。
 実際のところ、アレクサンドラとしてではなく、アレクシスとしては口づけをしたことはあった。相手はもちろん女性で、どうしてもとせがまれ、口説き落としてしまった手前、キスくらいしないと男ではないと疑われかねない状況に追い込まれたことも何度もあった。そうしているうちに、最初は抵抗のあった女性同士の口づけも、アレクサンドラの技が巧みだったのか、それとも雰囲気作りがうまかっただけなのか、女性たちはそれだけで満足してくれるようになった。もちろん、何回かは服を脱がないとまずい状態に限りなく近い修羅場に至ったこともあったが、そこは口八丁でなんとか相手を宥めすかし、自分のような下級貴族の遠縁筋で、爵位もない男にすべてを委ねては将来後悔することになると、綺麗な思い出のままにしようと、なんとかあきらめさせてきたアレクサンドラだった。しかし、それはすべてアレクシスとしての体験であり、相手は同性ばかり。異性との口づけも、アレクサンドラとしての口づけも初めてだった。

(・・・・・・・・初めての口づけだったのに・・・・・・・・)

 初めてのキス。肌を異性に見られたのも初めてのこと。薄い寝間着姿を見られたのも、寝台まで歩み寄った異性も、アントニウスが初めてだった。
 何もかもアントニウスに奪われたようにアレクサンドラは感じた。
 自分が非力で、何もできない女性なのだと、アレクサンドラは男装を始めて以来、初めて感じていた。

(・・・・・・・・結局、僕は偽物。本物の男にはなれないんだ・・・・・・・・)

 アレクサンドラは布団を握りしめ、ぎゅっと目をつぶってこぼれる涙を止めようとした。しかし、大粒の涙が頬を流れ、枕を濡らした。
 コンコンという優しいノックの音がし、ジャスティーヌの部屋へと続く扉が開いた。
「アレク、もう休んだ?」
 夕食を終え、サロンで両親と過ごしたジャスティーヌは、自室へ戻り、部屋着に着替えて姿を現した。
「アレク、そんなに痛むの?」
 涙の後を指でなぞりながらジャスティーヌが問いかけた。
「大丈夫」
 強がって答えたつもりだったが、アレクサンドラの声は完全に涙声だった。
「痛いなら、痛いって言っていいのよ。お医者様からも痛み止めのお薬を戴いているし。私は、だれにも言わないわ」
 優しく微笑むジャスティーヌに、アレクサンドラは少しだけ微笑み返した。
「ジャスティーヌは本当に優しいんだね」
「そんなことないわ」
「優しいよ」
 アレクサンドラは言うと、ジャスティーヌの手を握った。
「どうしたのアレク? 馬から落ちたのはあなたのせいじゃないわ。馬具に問題があったことは、アントニウス様が証明してくださるわ。だから、元気になって社交界に戻っても、あなたが恥ずかしく思うような噂になんてならないわ」
 ジャスティーヌが、社交界の噂といったことに、アレクサンドラは見舞いに来てくれた友のことを思い出した。
 アントニウスが見舞いに来ていたこともあり、全員を追い返してしまったが、みなアレクシスが落馬するはずがないと知っているからこそ、一大事だと見舞いに来てくれたに違いなかった。
「みんなに悪いことをしたね」
「でも、仕方がないわ。アントニウス様は爵位を持っていらっしゃらないとはいえ、公爵家嫡男ですもの。同じ時にあなたの部屋に通すのは失礼だから、仕方がないことよ」
 ジャスティーヌはロベルトがかかわらない限り、常に冷静に物事の流れを見極めることができるのに、ロベルトがかかわると、まったく回りが見えないというか、完全に冷静さを失ってしまうのだと、アレクサンドラは改めて認識した。その点からいえば、万が一にも、アントニウスがアレクサンドラの秘密を使ってジャスティーヌに近づこうものなら、ジャスティーヌはすぐに父上に相談するだろうと、アレクサンドラは確信した。
「ねえ、ジャスティーヌ。僕、女に戻れるかな?」
 アントニウスに秘密を握られた以上、いつまでもアレクシスとして社交界に出入りを続けるわけにはいかない。とにかく、すぐにでもアレクサンドラとして、社交界に姿を現し、アレクシスの存在を人々の記憶から消し去らねばならない。
「どうしたの? 馬から落ちたくらいで、あなたらしくないわ。あなたのミスじゃないんだから、恥ずかしがることないわ。正々堂々と社交界に戻ればいいのよ」
 先日まで、早く女に戻れとアレクサンドラを諭していたジャスティーヌの言葉とは思えない発言に、アレクサンドラは頭を横に振った。
「ジャスティーヌ、アレクサンドラが見合い相手として舞踏会に出席した以上、いつどこからジャスティーヌと僕二人に招待状が来るかわからないでしょ。どちらかが、将来の王妃になると社交界では思われている。そうなれば、お父様にもお母さまにも、いろいろなお話が来るだろうし、いずれは僕たち二人を招いて、今のうちに友達になっておこうとか、将来のためにコネを作ろうって連中がどんな計画を立てるかわからないんだよ。だから、僕も女の格好をできるようにしておかないと、いつまでも一人二役なんて、無理になる日が来る」
 アレクサンドラの言葉に、ジャスティーヌも自分が恐れていたことをアレクサンドラも恐れているのだと理解した。
「あなたは正しいわ。お父様のところには、いつもの三倍の招待状が届くようになったし、お母さまもいつもの五倍はサロンに招待されているそうよ。さっき、ディナーの時にお父様とお母さまが話していらしたわ」
「やっぱりね。お母さまは大丈夫だろうけど、お父様、大丈夫かなぁ」
「大丈夫よ。でも、二人を招待したいって話は、既に出ているみたい。今のところは、アレクサンドラは外出に慣れていないうえ、従弟が落馬して怪我をしたことにショックを受けて、外出はできないとお断りしているそうよ」
「じゃあ、この怪我が治った時が、アレクシスが帰郷する時ってことだよね」
 アレクサンドラの言葉に、ジャスティーヌが驚いた。
「アレク、本気なの?」
「仕方ないじゃない。いつまでもアレクシスではいられない。ジャスティーヌがそう言ったんだよ」
「でも、お友達にも何も言わず?」
「会えば、田舎はどこかとか、いろいろ聞かれるからね。誰にも会わないまま、いっそ、落馬の傷が原因で歩けなくなったとか、適当な理由をつけて帰郷したことにすればいいよ」
 思いつめたようなアレクサンドラが心配で、ジャスティーヌは自分の手を握るアレクサンドラの手に自分の手を重ねた。
「本当に良いの?」
「ジャスティーヌが王宮に嫁いで虐められても、アレクシスじゃ守りに行かれないからね」
「アレク・・・・・・」
「お父様に、話しておいて。それから、傷が治ってから、そのジャスティーヌが毎日つけている拷問器具をつける練習をゆっくり始めるってことで。傷が痛いうちは、絶対に無理だからね!」
 アレクサンドラは、念を押すように言った。
「わかったわ。あなたが本気なら、明日、お父様とお母さまに私からお話ししておくわ」
「きっと、お父様はお医者様を読んで、僕の頭がおかしくなったんじゃないかを調べてもらうよ」
「どうかしら、お母さまのほうがお医者様を呼ぶかもしれないわ」
 二人は、お互いに言いながら笑いあった。
 ノックの後部屋に入ってきたライラは、楽しそうな二人の姿に、ほっと安堵のため息をついた。
「まったく、落馬して大けがをしたかと思えば、お二人とも楽しそうでいらっしゃいますね」
 ライラは言うと、アレクサンドラの枕元に夜の薬を置いた。
 苦い薬湯のにおいが、アレクサンドラの顔をしかめさせ、近くにいたジャスティーヌの顔もしかめさせた。
「そんな顔をしてもだめですよ。打ち身にはこのお薬が一番効くんですから」
 ライラの圧力に負け、カップに手を伸ばしたアレクサンドラだったが、カップに触れる直前、手を引っ込めた。
「ライラ、打ち身に効くって、先生が下さったのは塗り薬でしょう?」
「これは、我が家に伝わる伝統の打ち身薬です」
 ライラは言うと、にっこりと笑って見せた。
「いや、打ち身に飲み薬って、おかしくない? ふつう、打ち身の上に薬を塗るものでしょう?」
「お嬢様方は、ずっと私の家に伝わる秘伝の薬湯で風邪の時も、熱が高い時も、ずっと治してきたのをお忘れですか? これが、打ち身に効く薬湯です。痛みももちろん治まります」
 譲ろうとしないライラに、仕方なくアレクサンドラはカップを手に取った。
「うっ、苦い!」
 一口をやっと飲み干したアレクサンドラが呻いた。
「無理だよ、全部なんて飲めないよ!」
「ダメです。お嬢様。美しいお体に戻らなくてよろしいんですか? 森に出る魔物みたいな色の痣が、農場の牛みたいに体のあちこちに残ってもよろしいんですか?」
 ライラのダメ押しに負け、アレクサンドラは一気に薬を飲みほした。
「〇×◇△×××◇◇×△△×◇◇・・・・・・・・・・・・!」
 飲み干すなり、アレクサンドラはカップから手を放し、枕に顔をうずめて言葉とも、呻きとも、叫びともいえる声を上げつつ黙り込んでいった。
「ライラ、本当にこのお薬、間違いないの?」
「はい、お嬢様。明日には、痛みもだいぶ良くなられることと思います」
 ライラの笑顔の答えに、ジャスティーヌは絶対に打ち身は作るまいと心に決めた。
「そうだ、ライラ。この痛みと傷が癒えたら、アレクがドレスを着る練習をするって」
「それはようございました。奥様も、さぞかし喜ばれることでしょう」
「ライラ、最初からきつく締めてはだめよ。また、アレクが男に戻ると言い出すかもしれないから。お願いよ」
「かしこまりました。まずは、部屋着の下のコルセットから始めるようにいたしましょう。この間は、いきなり外出でしたから、ジャスティーヌ様と同じくらいに締める必要がございましたが、部屋着からでしたら、ゆっくりと練習ができるかと存じます」
「ありがとう、ライラ」
「とんでもございません。それでは、わたくしは一度下がらせていただき、アレクサンドラお嬢様に口直しのデザートをお持ちいたします」
 ライラは言うと、ベッドの上に転がるカップを回収し、部屋から出て行った。
「なんか、ライラすごく楽しそうだったね」
 やっとのことで、薬湯のショックからよみがえったアレクサンドラが、先ほどよりも疲弊した表情で言った。
「そりゃあ、ライラだって、お嬢様付きメイドですもの。勝手に男装をするアレクよりも、ドレスを着てくれるアレクのほうが嬉しいに決まってるわ」
「いや、僕は、何か違うものを感じたけど・・・・・・」
「気のせいよ、アレク」
 首をかしげながらつぶやくアレクサンドラに、ジャスティーヌは笑顔で答えた。
「じゃあ、私は部屋に戻るわ」
「わかった。お休みジャスティーヌ」
「おやすみなさい、アレク」
 二人はハグを交わし、ジャスティーヌは続きの扉から自分の部屋へと戻っていった。
 一人残されたアレクサンドラは、再び、枕元の花を見つめた。

(・・・・・・・・男に花なんて、みんな変だと思わなかったかな。あ、そうか、この花は僕宛といっても、アレクサンドラ宛か・・・・・・。秘密を守るためには、僕が男のままでいないといけないと言っていたけれど、どうしたらいいんだろう・・・・・・・・)

 アレクサンドラは、唇を噛みしめながら目を閉じた。

☆☆☆

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