笑顔の君は何想ふ
一章 たられば


「お前らやめろよ!」


 勢いよく立ち上がったため、座っていた椅子がひっくり返り大きな音が鳴った。我関せずといった雰囲気で、昼ご飯を食べていたやつらの箸も止まる。

 いい加減、我慢の限界だった。

 これ以上、薄くなっていく彼の心を見ていられない。

 皆はどう思っているのだろうか。これくらいは遊びの範囲だと考えているのかもしれない。だけど、やられる方はいつだって、やっている方が思っているよりもずっと大きなダメージを負っている。

 敵意と無関心の色で埋め尽くされた教室で、僕はたった一人立ち上がった。

 彼を助けることができるのは、僕しかいない。


 ──あの頃の僕は、ヒーローになれると思っていた。


 ***


 嫌な夢を見た。

 大学に入学して一人暮しを始めてからは、一度も見たことがなかったのに。

 こんな日は、喫茶店で読書をするに限る。今日の講義は午後二時からだから時間的に余裕もあるし、新冊を買っても読み切れるだろう。


「よし、そうするか」


 とりあえず大学前の本屋に寄って、一冊買ってからいつもの喫茶店に行こう。飯は……朝昼兼用にして、店で食べればいいか。

 授業に必要なものを詰め込んだリュックを背負ってアパートから出る。しかし、自転車の鍵を開けた時、ポケットに携帯が入っていないことに気がついた。


 まあいいか。

 どうせ誰からも連絡なんて来ないだろうし。時計はつけない主義なので、時間が分からなくて困ることがあるかもしれない。けれど、喫茶店には時計があるから何とかなるだろう。

 大学に入学して早二ヶ月。未だに友人らしい友人は一人もいない……というより、作る気もない。

 誰かと深く関わると、嫌でも『アレ』が目に入ってしまうから。

 落ちて、墜ちて、どこまでも堕ちていく人の心を見るのは……辛い。そしてそれ以上に、あの日の光景が繰り返されることを恐れる僕がいる。




 下宿先のアパートから、大学までは自転車で数分だ。アパートを出たのは午前九時頃だったので、すでに一コマ目は始まっている。

 大学のすぐ近くにある、真っ白な外壁に囲まれた私立高校の授業も始まったばかりだろう。そのためか、大学前の大通りは人通りがほとんどなかった。

 本屋の駐輪場に自転車を止めて降りると、隣接しているコンビニで、見慣れた制服を纏った少女と、微妙にイケメンな男が話しているのが視界に入り足を止めた。

 普段なら少し視界に入ったくらいで、気にすることなんてない。気になったのは、少女が可愛かったから──などではなく、男の『色』だ。


「ぼやけた藍色……か」


 藍色が示すのは『悪意』。ぼやけているのは、嘘をついている証拠だ。

 少女の『色』は顔を見ないと分からないけれど、何となく嫌な予感がする。

 あの少女がどうなろうと、僕には関係のない話だ。そう割り切ってしまう方がいい。実際、今まで何度もそうしてきた。

 見て見ぬふりをして本屋に入りかけたその時、ほんの一瞬だけ少女の顔が見えた。

 まだあどけなさの抜けていない顔とともに、ほんの少し覗かせた少女の色は、一点の曇りもない純白だった。

 数年ぶりに見た白色に、考えるよりも先に体が動き、自然と足は少女の方向を向いた。


「なあ、お嬢さん。何かあったのか?」

「えっと……誰かしら?」


 振り返った少女は、まるで幼い子供のような雰囲気だった。

 身長は僕よりも頭一つ分くらい低いから、百五十センチくらいだろうか。後ろから見た時はロングヘアだったのに、正面から見るとショートカットに見える。純真無垢という言葉を体現しているかのような瞳は、どこまでも深くて、視線を惹きつける力がある。

 そして、やはり見間違いなどではなく、真っ白な心が僕の目に映る。


「えーと……僕は一色。そこの大学の一回生。その制服、そこの私立高校のやつだろ。もう学校は始まっているんじゃないのか?」

「授業はもう始まっているわ。でもそれどころじゃないの! この人のお友達が困っているらしいのよ!」


 彼女は男を指さしながら、やけに大きな声でそう言った。

 友達が困っているねえ……。嘘だとは分かっているけど、一応聞いておくか。少女と男の間に体を入れて、僕は男と向かいあう。


「お友達に何かあったんですか?」

「お、おう。でもアンタには関係ねえよ。そこの嬢ちゃんがいれば十分だからよ」


 おーおー、どんどん心がぼやけていってるぜ? お兄さん。


「あの車、さっきからずっと停まっていますね。運転席にいるのって、その困っているとかいうお友達じゃないですか?」


 さっきから微動だにせずに、こちらに視線を向けている車を指差す。

 乱入者である僕に対して、男は明らかに戸惑っているのが分かる。人間の目というのは、どうやら本当に泳ぐらしい。


「ずっと停まっているかなんて知らねえよ。ダチは今それどころじゃねえっつうの! お前さっきから──」

「はい、ダウト」


 男の言葉は嘘だ。友達が困っているというのも、車のことなんて知らないというのも。

 問題は、この場をどう切り抜けるかだけど……。


「あ? 何だよお前、人を嘘吐き呼ばわりしやがって。調子乗ってんじゃねえぞ」


 泳いでいた目が一転し、鋭いものに変化する。

 あー……やっぱりこうなった。かなりの高確率で、嘘を指摘した後はキレられるんだよな。

 藍色ってことは、この子に恨みがあるわけでもなさそうだし、ちょっと脅せばどっか行くかな。警察に電話をかけるふりでもすれば、何とかなるか。

 携帯を取り出して………………って、携帯ないじゃん!


「ちょっとお嬢さん、お手を拝借」


 Shall we dance? と言わんばかりに手を出すと、彼女は不思議に僕を見ながらも、手を取ってくれる。

 先に手を出しておきながらなんだけど、知らない男の手を簡単に取ってしまう、この少女の将来が心配だ。それよりも、今はこの男から引き離すのが優先か。


「走って!」


 少女の手を取ったまま、僕は走りだす。わざわざ追いかけてくることはないと思うけれど、一応大学の敷地内に逃げ込むことにするか。

 正門を通り抜けて、僕の所属する理工学部の建物を目指す。高校の制服を着た少女の手をとって走る僕を見て、不審な目を向ける学生はいたものの、声をかけてくることはなかった。

 大学というのは中学や高校と比べると、人との繋がりが浅い。そのため、同級生でも名前が分からないなんてことは、よくあることだ。まして、僕の顔と名前が一致する人なんて片手で数えられるレベルだろう。


「ここまで……くれば、大丈夫、かな」


 久しぶりに走ったから息が苦しい。横目で彼女を見ると、息一つ乱れていなくて、自分の体力のなさを実感する。

 どうやら五年も運動をしていないと、年下の女の子に負けるほど体力は低下するらしい。


「えっと……」


 目を丸くしている彼女に、どう説明すればいいだろうか。あの男が嘘をついていたから、なんて言っても信じてくれないだろうし……。


「どうしてあの人が嘘をついているって分かったの? あなた超能力者? それともスーパーマンなのかしら?」


 頭を抱える僕に対して、彼女はそう言い放った。


「……もしかしたら、僕が嘘をついているかもしれないだろ」


 何を言っているんだ僕は。これじゃあ、ただの怪しい人──、


「それはないわ。だって、さっきの人と車に乗っていた人は、知り合いだったもの。振り返った時、あの男の人が車に乗るのを見たから」


 あー、やっぱり追いかけては来なかったか。藍色は『悪意』であって、『敵意』ではないからな。

 悪意は『誰でもいいから悪いことをしよう』という感情であり、敵意は『こいつに悪いことをしよう』という感情だ。一見似ているけれど、実際のところは大きく違う。


「ねえ、どうして分かったの?」


 男と話しているときも、僕が現れたときも、今も、彼女の心の色は変わらない。生まれたての子供と、死ぬ間際の人以外で、僕はこの色をした人を見たことがない。

 純白──それは数ある色の中で、僕が唯一分からない感情の色だった。


 これが、感情の見える僕──一色涼夜と、感情の分からない彼女──東堂香織の運命的な出会いだった。
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