神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
「……なるほど。犬貴と言ったか? ハクがお前以外の“眷属”をもたずにいても、事足りると勘違いしていたのもうなずける。
咲耶の“影”にありながら、これだけの“術”が遣えるのだからな。強力な『もののけ』だ」

左肩から布が裂け、あらわになった二の腕から血をしたたらせ、百合子が笑う。
妖艶(ようえん)な微笑は、どこか状況を楽しんでいるようにも見えた。

「手加減は無用ということだな?」

乱暴に片そでを破り、百合子は、裂いた布で腕の付け根を縛り上げる。
瞬間、咲耶の身体が脱力感に襲われた──犬貴が、咲耶の“影”から抜け出たのだ。

「しばしのお別れにございます、咲耶様。
貴女様なら必ずやハク様に、御名をお伝えできることと信じております」

支えられた身体に、犬貴の声がかかる。次いで、ふわり、と、咲耶の身体が宙に浮く。

東風(こち)よ、この御方を彼の地へ」

言葉と共に咲耶は、暖かく優しい風につつまれていた……。





気づいた時、咲耶の側には、犬貴も百合子もいなかった。

空は青く、手を伸ばせば触れられそうに近くに感じる。おもむろに咲耶は身を起こした。

遠目には、うっそうと生い茂る木々が濃い緑となり、固まって見えた。そこから一本の細い道が、咲耶のいる場所にまで続いている。

(転々もタンタンも……犬朗も犬貴も……いなくなっちゃったな)

手も足も、鉛のように重い。全身が気だるくて仕方なかった。それでも咲耶は、自分の進むべき道を見据えるため、立ち上がる。

視線を転じると、そびえ立つ岩山の手前、咲耶のいる所より少し先が、切り崩したような崖になっていた。ここで、行き止まり──。

咲耶は、茜の助言を思いだした。

「目に見えるものは、信じちゃダメよ? 見えないものが、そこに存在すると、信じること」
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