神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
“陽ノ元”に戻った翌日、咲耶は愁月の邸を訪れていた。……正確には、幻の邸となるようだが。

以前に来たとき同様、人の気配が感じられないそこを訪ねたのには目的があった。

(確か、この奥の部屋だったはず……)

“国司”尊臣をあざむいた愁月は自ら退官し、その座を降りていた。

尊臣の自尊心によるものか温情によるものかは解らないが、愁月の背任は公表されず罪には問われなかったようだ。

(やっぱり……)

几帳が幾つも置かれ、隠されるように囲われたそこに横たわる、可憐な美少女。
傍らの柱に力なく身を預けるのは、朽ちそうな片腕をした中年の男。

「咲耶……? そなた、なぜ……」

こけた頬と血色のない唇を動かし、愁月が咲耶を見上げてくる。うつろな眼は、力なく揺れていた。

「戻ってきました、ここに……“陽ノ元”に。私にはまだ、やれることがあるから」
「……私の、治癒は……断った、はず……。この身に……受け……(とが)め……は、天の、裁き……」

息をするのもやっとであろうに、愁月は頑として咲耶の善意をはねつける。しかしそれは、咲耶の想定内のこと。

「あなたを()やすことは、しません」

告げた咲耶の右手が向かうのは、先代の“下総ノ国”の白い“神獣”の“神の器”。
単衣(ひとえ)をめくって触れる、“神逐(かむや)らいの(つるぎ)”が残した傷痕。
そして──。

綾乃(あやの)さん、ここに……あなたの身体に、戻ってきてください……!」

治癒と再生。
咲耶が和彰から与えられた、尊き“神力”。

切り離された魂魄(こんぱく)を結びつけることのできる、唯一無二の力だった。

咲耶の右手の下で、大きく弾む華奢(きゃしゃ)な身体。長いまつ毛が、震える。
汚れなき白い花が開くように、辺りに清浄な空気が放たれた。

「……愁月」

小さな紅唇がつむいだ音に、呼ばれた本人が息をつめるのを感じた。

咲耶は、安堵から肩の力を抜く。
瞬間、咲耶の身体をぐいと押しのけ、なよやかな肢体が枯れ木のような男に向かう。

「愁月!」

言うなり、その首にすがりつき、驚く咲耶の目の前で少女とは思えぬ激しさでもって、かつて“神官”と呼ばれた男の唇を奪った。
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