銀貨の代わりにあなたに愛を

ベルトラン夫妻は客間に通された。
「エリーゼ、私も一緒に応対しよう。父上がいない間は、私がこの屋敷の主人だ」
不安そうなエリーゼが頷くのを見ると、アンドレは近くにいた召使いに誰にも聞こえないような小声で言った。
「客間にお茶を頼む……それから大急ぎで紅茶商会の事務所まで行って、ラグレーン殿を呼んできてくれないか。ベルトラン殿が来たと伝えてくれ」
召使いは目をぱちくりさせたが、わかりましたと小さく頷くと廊下の先へ去っていった。

ベルトラン夫妻は少し緊張した様子で長椅子に腰を下ろしていた。紅茶のあるテーブルを挟んで、その向かいにアンドレとエリーゼが座った。
エリーゼ自身も緊張していたが、出された紅茶を飲むといくらか落ち着き、それは客の二人も同じようだった。
「ドルセット伯爵令嬢様。突然お邪魔して申し訳ありません」
客の言葉にエリーゼは、にっこりと微笑んだ。
「いいえ、かまいませんわ。ええと、まず自己紹介をさせていただきますわね。私はエリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットです、エリーゼとお呼びくださいな」
「私は、兄のアンドレです。ここで妹に付き添わせていただくことをお許しください」
伯爵子息が頭を下げたのに、客の二人は恐縮したように慌てて言った。
「い、いいえ、そんな! ご兄妹でご対応くださることだけでありがたいことですから……。私はエドゥアール・ベルトランです。船主で、今は船長もしております」
「妻のアンヌです。私も夫の付き添いとして参りました」
エリーゼは頷いた。二人とも私よりもひと回りほど歳上できれいな顔立ちをしているけど、なんだか表情が強張っているわ。
「それで、一体どのようなご用件でしょうか?」
エリーゼの問いに、エドゥアール・ベルトランは少し躊躇したが、真剣な顔で言った。
「実は……この前の王都の舞踏会で、あなたがラグレーンという男と親しい関係にあるということを知りました。エリーゼ様は彼が……何者かはご存知ですか」
エリーゼは目をぱちくりさせた。ちらりと兄の方を見ると、彼はやはりと言うような顔をしている。
エリーゼは戸惑った様子で頷いた。
「ええ。グラン・ラグレーンさんとは、親しくさせていただいております。兄の商会で働いていますので、彼の事も全て知っているつもりですが」
エドゥアールは苦い顔をして言った。
「私のような者がこんな事をいうのもなんですが、敢えて忠告をさせてください……彼とは関わらないほうがよろしいかと」
アンドレは、彼がそう言うだろうとわかっていたのか無表情のままだったが、エリーゼは貴族令嬢であることも忘れて思いっきり顔を歪めた。
「はあ? おっしゃっている意味がわかりかねますが。あなたは彼となにか関係があるのですか?」
エドゥアールは頷いた。
「ええ。私は昔――あの男に嵌められました」
「なんですって?」
エリーゼは目を見開いた。
「では、あなたが……あなたがあの新聞に載っていた方ですの、グランに復讐を果たしたという方は?!」
目の前の人物がゆっくりと頷いたのに、エリーゼは少し前の記憶をたどった。この前の王都や、初めてグランに会ったあの舞踏会で、あの大勢の人達に囲まれていた、あの紳士、あれはこの目の前にいる人物だったのだ。後ろ姿は見たことがあったが、きちんと正面から顔を見るのはこれが初めてだった。
「ですから私は、あつかましいとは思いつつもこの度御忠告に参ったのです」
エドゥアールは言った。
「今はなんの権力もありませんが、ラグレーンを信用してはなりません。彼は恩を仇で返すような男です。私はそれを目の前で見てきましたからわかります。彼のせいで名門ドルセット伯爵家が揺らぐとは思えませんが、被害に遭う前に対処した方がよろしいでしょう」
エドゥアールの顔は真剣そのもので、心から案じている様子であった。エリーゼは彼の言葉をきいて少し思案したが、やがて微笑んで言った。
「御助言をどうもありがとうございます、ベルトラン様。ですが私は、グラン・ラグレーンさんと関係を断つ気は全くありません」
ベルトラン夫妻は「えっ!」と声を出して驚き、隣に座っているアンドレさえも、妹のそのはっきりとした物言いに目を丸くした。
「な、なぜですか!? あなたは騙されているのですよ、彼はいつでも富を蓄えようと貴族を狙っていたのですから」
エドゥアールの慌てた様子に、エリーゼは微笑みを浮かべたままだった。
「そうですわね。商人であるのならば、顧客は貴族が一番最適ですもの」
「そうではなくて……では、私の話をしましょうか。私はもう何年も前ですが、彼と同じところで働いていました。私も彼も暮らしていけるだけの収入はあった。しかし……」
「彼が会社の雇い主の貯蓄を全部盗み出して、その罪をあなたに被せた。小さかった会社はそのせいで経営が傾き、あなたは役所へ連れて行かれてしまった……。奥様もそのせいで随分つらい思いをされたのでしょう」
エリーゼがそう言ったのに、エドゥアールは頷いた。
「そうです、それから彼は莫大な富を手に入れ、周辺諸国で有名な銀行家になった。私を陥れて得た……雇ってくれていた会社が倒産するはめになった、あのお金で!」
エドゥアールの目には小さな怒りの色がちらついていた。
「あの頃の私は自分の無実を立証する知恵も方法もなかった。ただ、平和に安定した仕事をして、アンヌと暮らすことだけを望んでいたんです。しかし彼にもろとも崩された」
エドゥアールは何年かの懲役を経てやっと釈放されると、グランに対する復讐を誓い、それを果たした。かつてのエドゥアールと同じように、彼になにもかもを失わせたのである。
「ラグレーンはどれだけ人に尽くされても、それに感謝することはありません。常に人を利用し富を得ようと考えている。ですから……」
「エドゥアール様、それではおききしますが」
エリーゼが彼の言葉を遮って言った。
「そこまで彼を恨んでいるのなら――あなたはなぜ彼を牢獄から出したのですか」
エリーゼからは微笑みが消え、鋭い視線がエドゥアールを貫いていた。
その通りだと、隣のアンドレも心の中で頷いた。そもそもそれは新聞を読んだ時から抱いていた疑問だったのだ。牢を出て苦労して地位を築き、仇のグランを騙して破産へと追い詰め、地位も財産も失わせ正当な理由で牢へ入れた。そのまま法に任せればよかったのである。
しかし、結局エドゥアールは彼を庇う形でグランを牢から出した。それは「寛大な精神」と称賛され、新聞の小見出しにもなっていたが、なにか意図があったのだろうか。
エリーゼの問いに、エドゥアールは黙ったまま視線を落とし、険しい顔になっていた。アンドレは少々同情した。彼にとってグランの釈放はつらい決断だったということは見てとれる。
返事をしないエドゥアールに、エリーゼは続けて尋ねた。
「もう一つお尋ねします。あなたは彼に、一体なにを望んでいるのですか」
「それは……もちろん、償いです」
その言葉に、エリーゼは冷たくふんと鼻で笑った。
「そうでしょうね。彼はあなたを陥れて一瞬の幸せを手に入れたんですもの。だからあなたは復讐をした。彼からなにもかも奪ったのよ、富も、地位も権力も名誉も、彼が拠り所にしていたものは全て。あなたは昔、グラン・ラグレーンのせいで全てを失ったけれど、今は取り戻している。どれだけの苦労があったかは知れないけれど、新聞で情け深い人間と称され、アンヌ様と今は幸せに暮らしている。そうでしょう?」
「そうですが、しかし……!」
エリーゼは自分でも止められないほど苛立っていた。彼女の頭には、グランと初めて出会った夜のことが蘇っていた。復讐の機会を失った時、彼は……震え、泣いていた。目標すら失い、生きることさえ拒もうとしていたのだ。
エドゥアールにはアンヌという支えがあった。でも、グランにはなにも、なにもなかったのよ。
エリーゼは、エドゥアールが話そうとしているのを許すことなく、立ち上がって一気にまくし立てた。
「彼から全てを奪って、まだ飽き足らないのですか? 貴族の小さな商いで経理すらしてはいけないの? あなたは彼を苦しめて幸せになっているのに、彼には幸せになる権利がないというの! エドゥアール様、あなたは彼がどんな生活を送ればご満足なの!?」
「エリーゼ、少し落ち着きなさい」
アンドレがエリーゼの肩を掴んで座らせた。エリーゼは兄の咎めるような目を見たが、すっと目を逸らし息を吐くと「ごめんなさい」と言って、カップに残っていた紅茶をぐっと飲み干した。アンドレは、その妹の貴族の令嬢の欠片もないしぐさに小さくため息を漏らした。
エドゥアールの方は驚いたようにエリーゼを見て、妻のアンヌと顔を見合わせていた。
その時、扉がノックされて召使いが入ってきた。彼はアンドレに耳打ちすると、伯爵子息は頷いて「お通ししてくれ」と小さく言った。
召使いが部屋を出て行くと、アンドレは立ち上がって、先ほど妹が張り詰めさせた空気を和ませるように、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「まあ、我々がここで話していても仕方ありません。やはり本人が必要かと思いましてね、勝手ながら彼をお呼びいたしました」
エドゥアールとアンヌ、そしてエリーゼはぽかんとした顔になった。
「な、なにを……」
「お兄様、まさか」
その時、再び扉がノックされた。
「どうぞ」
アンドレは声を張って返事をすると扉を開けて姿を現したのは他でもない、今話題になっていた男だった。
「グラン!」
アンドレ以外の三人は目を見開いた。
グラン・ラグレーンは、エリーゼに名前を呼ばれても視線を合わせようとせず、苦しそうな顔をして出入り口に留まっていた。
アンドレは優しくグランの方へ歩み寄って声をかけた。
「さあさあラグレーン殿、こちらへどうぞ。一度、三人で昔話をされた方がよろしいかと思いましてね。ああ、もちろんご夫妻とあなたですよ。我々部外者の兄妹は席を外しましょう……エリーゼ」
「お兄様! そんなの勝手だわ!」
エリーゼはさも不満そうに言ったが、アンドレは首を振った。
「いいや、そうでもないさ。この件に関しては、私たちの方が無関係なんだよ。さあいこう」
エリーゼは、兄の有無を言わさない厳しい目に唇を噛み締めたが、「わかったわ」と小さく頷いて立ち上がった。
扉の前まで来ると、そばに立っているグランの方を向いて彼の顔を不安気に見上げた。
「グラン、私……」
エリーゼは心配だった。彼は半年前、エドゥアールの命を奪おうとした。もう今は心が変わっていることはわかっていたが、それでも彼のそばにいたかった。
しかしグランは、部屋に入ってきた時は苦しそうな顔をしていたが、自分を案じるようなエリーゼの顔を見ると、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だ、エリーゼ。心配いらない」
エリーゼは、そんなグランをしばらく見上げていたが、やがて小さく微笑み返すとわかったというように頷いて兄に手を引かれて客間を出ていった。
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