銀貨の代わりにあなたに愛を
客間に残されたベルナールは、眉をしかめたまま呆然とソファに座っていた。あまりにもぼんやりとしていたため、息子が入ってきた事に気付かなかった。
「彼は想像と違いましたか、父上?」
アンドレの言葉にベルナールははっと顔を上げた。
「アンドレ……いつの間に」
「今入ってきたところですよ。どうでしたか、ラグレーン殿は」
ベルナールはしかめ面をしたままだった。アンドレは吹き出しそうになるのを堪え、努めて落ち着いた声で言った。
「思いの外、まっすぐな男だとは思いませんでしたか」
ベルナールは口を開いた。
「……アンドレ、お前は最初にあの男と会う前に、全部調べていたのか?」
アンドレは目を瞬かせた後、笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん。父上に、知らない人間と会う時は事前に全てを調べておけと昔から指導をされていましたから」
「……そうか」
ベルナールは目を細めた。その目は幾分穏やかであった。
「昔、銀行家だったあの男を社交界で見かけた時は、なんと憐れな男だと思った。ああいう奴は結局下へと落ちていくものだからな。だが――ここまで変わるとは。一体なにがきっかけだったのか」
アンドレは笑みを浮かべた。
「エリーゼですよ」
「エリーゼ? あの娘がなにをしたというのだ?」
「なにをしたと言えば……まあ、無償の愛を注いだというのでしょうか。エリーゼはただ彼を愛しただけですよ」
ベルナールはわからないというように息を吐いた。
「正直、彼には驚いた。爵位をぶら下げればすぐに引き下がると思っていた。身のほどはわかっていたようだが……諦めの悪そうな男だ」
アンドレは客間の窓辺へと歩み寄ると、グランが去っていく後ろ姿を眺めた。
「諦めませんよ、彼は。彼にはエリーゼしかいない。エリーゼだけが唯一の生きる理由なのです、少なくとも今は」
と、その時扉がノックされ、客間にエリーゼが入ってきた。涙はしっかりと拭ってあり、瞳は強い意志を持った輝きを放っていた。
「お父様」
エリーゼは言った。
「お父様のご意見をお聞かせください。それによって、私は今後の身の振りを決めます」
アンドレは、エリーゼの真剣な顔に小さく笑みを浮かべた。彼女も覚悟はできているようだ。
ベルナールは額に手を当てた。
「待ってくれ、少しくらい考えさせてくれてもいいだろう……」
そうしてしばらく沈黙が続いたが、やがて「わかった、ではこうしよう」と、ベルナールは息を吐いて、口をへの字に曲げたまま、二人に次のように言った。
「条件を出そう。商会の大きさを今の倍以上にする。それもアンドレ、お前の力なしにだ。エリーゼが夜会に出向くのもだめだ、もちろんお前が彼と会うことも禁ずる。伯爵家の関わりは商品の必要な買い付けのみに限る。もしその条件で、ラグレーンが商会を大きくできたのなら……エリーゼ、お前と彼の仲を祝福してやろう」
エリーゼの顔には、みるみるうちに満面の笑みが広がった。
「お父様、ありがとうっ!」
勢いよく抱きついてきた娘を、ベルナールは驚きながらも、優しく受け止めた。
「……まだ、彼が成功するかどうかは決まっていないんだぞ」
エリーゼは嬉しそうに笑った。
「いいえ、彼ならきっとやり遂げるわ、お父様、大好きよ!」
その言葉に、ベルナールは呆れたような声でつぶやいた。
「つくづく私も甘いな……」
「それでこそ父上です。寛大な精神に感服しました」
笑顔を浮かべて言ったアンドレを、ベルナールはきつく睨みつけた。
「どの口が言うんだ、陰でこそこそ画策しよって……。北の領地にいる間は、全てお前が情報を握っていたのだろう。マリー・ブリュノーから手紙がこなければ、私は知る由もなかったんだぞ」
アンドレは額に手を当てた。
「ああ、やはり彼女でしたか。それ以外は漏れのないようにしていたのですが」
「全くとんでもない息子だ」
ベルナールは顔を背けたが、エリーゼは首だけアンドレの方に向けた。
「お兄様もほんとうにありがとう……最初から全部考えてくれていたなんて」
「可愛い妹の幸せのためさ」
アンドレは妹に微笑みかけると、そのまま父に言った。
「それでは、ラグレーン殿に父上の提案を伝えてきます。父上も、息子がもう一人できる準備をしておいた方が良いですよ」
ベルナールは鼻を鳴らしただけだったが、アンドレはそれを肯定として受け取ると、客間を後にしたのだった。

アンドレが去っていくと、ベルナールは娘と向き合った。
「エリーゼ、お前に確認しておきたいことがある」
「はいお父様、なんでしょう」
ベルナールは厳しい顔をしていた。
「彼の妻になるということが、どういうことになるのかわかっているのか」
エリーゼは父の問いに目を瞬かせたが、すっと真剣な表情になった。
「わかっているわ。貴族ではなくなる、そうでしょう? 私は平民になるの」
ベルナールは苦い顔のまま言った。
「今までお前は伯爵令嬢として、地位も権力も約束された生活をしてきた。貴族の中には、お前を妻にと望んでくれる者は大勢いるのだぞ。お前はそれでも平民を選ぶのか――権力と地位が約束された生活を失うということがわかっているのか?」
エリーゼはゆっくりと頷いた。
「ええ、お父様。わかっているつもりです。私は、伯爵家の娘という地位をこれまで最大に活用させていただきました。とても便利なものだけど、私には然程重要なものではありません。それよりも大事なものを――大事な人を見つけたから。未練はないわ」
「社交界ではどうする? 平民に降嫁した変わり者のレッテルが貼られるぞ」
「お父様」
 エリーゼはふふふと口元に笑みを浮かべた。
「私はもうすでに変わり者よ、二十一の引きこもり令嬢ですから。……私はどんなことになろうとも、彼の妻になりたいの」
エリーゼの強い思いに、ベルナールはしかめたまましばらく沈黙していたが、やがて再び問いかけた。
「お前から見て、彼はほんとうに悪人ではないんだろうな?」
アンドレもそうであるが、ベルナールは娘が社交界において裏のある人間を嫌い、関わりを断っていることは知っていた。だから、ラグレーンのような男を選んだことは驚くべきことだった。
「悪人だったとは思うわ。どんな理由であれ、やってはいけないことをした」
エリーゼは言った。
「でも、彼は変わったのよ、お父様。自分のした事を心から悔いています。彼にだって生まれ変わるチャンスがあってもいいと思うの、だって、私……」
エリーゼは少し躊躇したが真面目な顔で父親を見た。
「私、彼をほんとうに愛しているの」
ベルナール苦い顔のまま、なにも言わずにしばらく沈黙していたが、やがて言った。
「お前は私のただ一人の娘だ。わがまますぎるくらいに育ててしまったが、どんな形であれ、お前の幸せを望んでいる。どちらにせよあの男の暮らしが私の思う十分な生活状態になるまでは嫁にはやらん」
エリーゼは父親の思いに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう、お父様」
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