銀貨の代わりにあなたに愛を

グランは事務所のすぐ隣の自宅に向かわず、かつて通っていた造船所まで続く通りへと向かった。そして目当ての人物を見つけると声をかけた。
「やあ、覚えているだろうか、前に君から花束を買って届けるよう頼んだ者だが……」
そう、通りを歩いていたのは、あの花売りの少女だった。彼女は眉を寄せてグランの顔をじろじろ見たが、思い出したように言った。
「ああ、あの時の! もうずっとお見かけしないから、どうなさったのかと思っていましたが……」
「今は住まいを替えて、中心街近くに住んでいるんだ。その……悪いが、君に頼みがある」
娘はきょとんとしたが、次の瞬間あからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
「いやですよ、まさか、また……!?」
グランは申し訳なさそうに言った。
「そのまさかだ、頼む。礼はきちんとする」

エリーゼは紅茶を飲みながら、自室で本を読んでいた。外出は禁じられていたのだが、同情した兄があちこちから読み物を買い揃えてくれたのである。あらゆるジャンルのものが用意されており、中には商いの基礎や、紅茶について言及された著書もあった。さすがはアンドレである。
エリーゼは有り余った時間を使って夢中になって読んだ。紅茶の原産国の文化は、想像をはるかに超えていて、とてもおもしろいわ。これはグランにも教えてあげなきゃ……。
そんな風に過ごしていた午後であったが、突然訪問者が現れた。
「お客……? 私に?」
エリーゼが目を瞬かせたのに、メイドが頷いた。
「花売りの方です、以前いらしたことがあると……」
「花売り……ああ、わかった、彼女だわ! すぐにお通ししてちょうだい」
エリーゼは思い出したように笑みを浮かべた。

部屋に入ってきたのは、エリーゼの予想通り以前自分に花を届けてくれたそばかすのある花売り娘だった。
エリーゼは座ってと促したが、彼女はとんでもないと首を振った。緊張で震える手にはピンク色の大きな花束を抱えている。
「いらっしゃい、お久しぶりね」
エリーゼの美しい笑みに出迎えられ、娘はかっと顔を赤らめた。
「お、お、覚えてらしたんですか……!」
「もちろんよ。お花をもらったのはあの時が初めてだったもの……でも、お名前をきいてなかったわね。伺ってもいいかしら」
「ロ、ロザリーヌです、ロザリーヌ・バルビエ。街はずれの花屋の娘でして……」
「ロザリーヌさんね。私はエリーゼ、エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットよ。今、お茶を淹れるわね」
エリーゼはメイドを呼ぼうとしたが、ロザリーヌはぶんぶんと首を振った。
「い、いいい、いえいえいえ! 結構ですよ、私はただの使いですから! ええっと、これですこれ、前と同じ人、ええっとグランさんだったかな……贈り物です!」
そうしてピンクの花束がエリーゼの前にどんと突き出された。甘い香りが漂っている。
「ふふふ、ありがとう。素敵な花束……これはスターチスね。花言葉はなんだったかしら」
ロザリーヌは少し誇らしそうに答えた。
「"変わらぬ心"です。グランさんから、そういう意味の花はないのかと尋ねられて、この花にしました」
エリーゼはそれを聞いて、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「変わらぬ心……まあ、うれしい。では、グランは手紙を読んでくれたのだわ」
ロザリーヌは手紙という言葉にはっとして、ポケットから紙切れを取り出した。
「も、申し訳ありません、この手紙も渡すように頼まれていたんでした……!」
エリーゼは目を丸くしてその手紙を受け取る。
「手紙……? あなた、手紙まで頼まれたの? ひどいわね、まるで配達屋さんじゃない」
ロザリーヌはへへへと頭に手をやった。
「ま、まあ、お代は十分過ぎるほどいただいているので……。あ、あのう、つかぬ事を伺いますが、グランさんはあなたの……?」
「恋人よ。今は理由があって直接会えないの」
恋人! この美しい人が、あの下町を彷徨いていたあの胡散臭そうな男の。ロザリーヌが眉を寄せて口を引きつらせた変な顔をしたので、エリーゼは吹き出した。
「ロザリーヌっておもしろいわね。思ったことが顔に出ているから、なにを言わんとしているのかがすぐにわかるわ」
「う、よ、よく言われます。それにしてもエリーゼ様、その、グランさんに騙されている、なんてことは……」
ロザリーヌの言葉にエリーゼは笑みを含ませながら首を振った。
「万に一つもないわ、彼だもの。それにあの人も、私を信頼してくれているのよ」
その確信しきったエリーゼの言葉と表情に、ロザリーヌはそういうものなのかと曖昧に頷いた。
そんな様子の彼女に、エリーゼはまたくすりと笑うとお礼の言葉を述べた。
「素敵な贈り物をありがとう、ロザリーヌさん。あなたのおかげで私は当分元気に過ごせるわ」
エリーゼにそう言われ、ロザリーヌは真っ赤になって「いいえ、そんな」と返事をすると、カクカクと身体を動かしながらようやく屋敷を出た。
「……はあ。ほんとうにきれいな人」
屋敷の外では、案の定グランが待ち構えていた。
「ど、どうだった……!? 彼女はいたのか? ちゃんと渡してくれたのだろうな?」
ロザリーヌは胡散臭そうな目をグランに向けて答えた。
「渡しましたよ、ちゃんと手紙まで。エリーゼ様は私に『まるで配達屋さんじゃない』って同情してくれましたよ」
「そうか! よかった……ほんとうにありがとう、感謝している」
心底ほっとしたように言うグランに、ロザリーヌは眉を寄せて言った。
「不躾なことを問いますが、あなたはほんとうにエリーゼ様の恋人なんですか?」
「え? まあ……そうだな。信じられないが、俺も彼女も、思いは通じ合っている」
ロザリーヌは疑い深そうに目を細めた。
「直接お会いしないんですか?」
「彼女の父親……伯爵がまだ許してくれないんだ。条件を満たせば認めてもらえるんだが、まだ時間がかかりそうでな」
ああ、なるほど。ロザリーヌは納得した。
「貴族との恋も楽じゃありませんね」
グランは苦笑いした。
「苦だとは思わない。彼女に会えるためならなんだってするさ」
そんな言葉が、この陰気そうな顔の男からするりと出たことに、ロザリーヌは驚いて目を見開いた。
「とにかく、ありがとう」
そう言って身を翻したグランの背を、ロザリーヌはぼんやりと眺めていたが、先ほどの花束を受け取ったエリーゼの笑顔を思い出して大声で言った。
「もしまたご用事があったら、街はずれのバルビエ花屋まで来てください! 伯爵邸にだってどこにだって、私がお届けしますよ」
グランは目を瞬かせたが、小さく頷き、わかったというように片手を挙げると、今度こそ中心街の方へと去っていった。

「エリーゼ様、お花をこちらにお渡しください、そんな風に扱っては……!」
メイドの咎める声も聞かずに、エリーゼは花束をずっと抱きしめていた。
「だってとっても嬉しいんだもの! お花をもらえるってほんとうに素敵」
「お花がかわいそうですわ……お手紙も来ていたのでしょう? そちらはご覧になりましたか?」
「あっ、そうだったわ!」
エリーゼは花束を名残惜しげに渡すと、深呼吸してから膝に置いていたままの手紙の封を開けた。


『愛するエリーゼ

手紙をありがとう。
仕事を山積みにしているから、返事をちゃんと書く暇がなくて申し訳ないが、こうして手紙をもらえるのは、なによりの励みになる。
それと夜会だが、君以上に魅力的な女性はいないから安心してほしい。
エミールとジャスマンもよく働いてくれているが、ひとつ言わせてほしいのは、君から彼らに手紙を出す必要は全くないことだ。伝言があれば、俺から伝えよう。
君に一日でも早く会える日を楽しみにしている。
それでは。

グラン』

エリーゼは何回も何回も手紙を読み返すと、二つ折りにしてため息を吐いた。そうして、いつのまにかメイドが花瓶に活けてくれていたスターチスの花をうっとりと見つめた。
エリーゼは含笑いを浮かべた。"伝言があれば"だなんて。あるとしても、グランに向けての言葉しかないのに。エリーゼは、グランのこの不器用ささえも愛しく感じていた。
会いたい。今すぐ事務所まで駆けていって彼に会いたい。エリーゼは祈るような気持ちで空を見上げるのだった。

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