蜜月は始まらない
唇が離れたすぐそこで、たしかに彼は、つぶやいた。

呆然とする私を余所に、錫也くんはふらりと身体の向きを変えると、そのまま覚束ない足取りで寝室へと消える。



「っは……」



短く息を吐き出しながら、崩れ落ちるように床に座り込んだ。

震える手のひらで、口もとを覆う。


なに……今の。

錫也くんに、いきなりキス、されて。

でも……『間違えた』って、言われた?


つまりそれは、私を他の誰かだと勘違いしてキスしてしまったということで。

彼には、あんなキスを交わす相手がいるということ?


自分でももはや何が理由かわからないけど、じわりと涙が滲んだ。

流れ落ちてしまう前にそれを乱暴に拭い、立ち上がる。

シャワーを浴びて。就寝の支度を整えて。

ベッドに潜り込んだ私は、それでも胸の中がぐちゃぐちゃで、なかなか寝つくことができなかった。
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