Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~
 少し扉を開いて中を窺う。玄関の三和土には誰の靴もない。
 千紗子はゆっくりと玄関の中に足を踏み入れた。

 「俺はここに居るから。何か有ったらすぐに呼べ。」

 玄関扉の外側に立ったままの雨宮がそう言う。
 千紗子は彼に頷くと、ドアストッパーを立てて扉を半開きにしてから、靴を脱いだ。

 足音を立てないように廊下を進む。

 (裕也はいないはず…でももし出会ったら、彼に何を言えばいいの…!?)

 結婚の約束までした恋人を非難する気持ちや悲しみ、『どうして』という困惑が次々に浮かぶ。
 けれどそれをどう言葉にしていいのか、今の千紗子には分からない。
 このまま自分の中にある黒い波にのみ込まれてしまいそうだった。

 胸の中に渦巻くものが、リビングのドアに近付くにつれ大きくなる。
 ドアの正面に立ち、ノブを握った瞬間、千紗子の心臓が大きく波打った。
 
 それはさっき鍵を回すのを躊躇した時の比ではなく、全身が心臓になったようにバクバクと血が流れるのを感じる。

 (ここまで来て、こんなことすら苦しいの!?)

 正直、この家の中に入った時から千紗子は息苦しさを感じていた。
 けれど、心配そうに自分を見つめる雨宮に、これ以上の迷惑を掛けられない、と思った千紗子は自分を奮い立たせて廊下を進んだのだ。

 (とにかく、誰もいないことを確認して雨宮さんに報告しないと…これ以上彼を付き合わせちゃダメ……)

 雨宮の手をこれ以上煩わせたくない一心で、千紗子はリビングのドアを開いた。
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