光のもとでⅡ+

Side 司 03話

無事に予定していたバスに乗ることができ、後ろから三列目のふたりがけの席へ腰を下ろすと、
「今日、ツカサは何かお買い物するものないの?」
「とくにこれといったものはないけど……。翠のシャンプーやボディーソープ売ってる店ってバスグッズ売ってる店?」
「え? うん。バスグッズ専門的だけど?」
「じゃ、そこでちょっと買いたいものはあるかも。翠は? 俺の誕生日プレゼント、何を探そうとしてたの?」
「あー……ものは決まっていたのだけど、どうしよう……?」
 翠は首を捻って悩みこんでしまう。仕舞いには唸り声まで聞こえてきそうな顔つきになるから、声をかけた。
 翠ははっとしたように、
「あのね……本当はメガネをプレゼントするつもりでいたの」
「メガネ……?」
「うん。そのフレームなしのメガネはとってもよく似合っていて好きだけど、スクエアタイプの黒縁メガネとか鼈甲フレームなんかでも似合うだろうなぁ、と思っていて……。でも、伊達なのよね……? 換えのメガネはいらない?」
「……いや、別に……あっても困らないけど……」
 このときの俺は、ちょっと舞い上がっていたと思う。翠が自分に似合うメガネを選ぼうとしてくれていた、という事実に。
 それは、翠に似合う洋服を選ぼうとしていた自分に通じるものがある気がして、なんだかすごく、嬉しい感じがした。
 だから、このとき翠が何を考えていたのかなんてまったく想像もしておらず、
「どうして伊達メガネなんてかけてるのっ?」
 詰め寄られたときには若干虚をつかれた状態だった。
「言いづらい理由でもあるの?」
「そういうわけじゃないけど……」
 でも、今の今まで誰に話すこともなかったな、と思う。
 弓道をするときはメガネを外していたから、中には伊達メガネと気づいていた人間はいたかもしれない。でも、それを俺に訊いてくる人間はいなかった。
 もし訊いてきた人間がいたとして、まずこの話はしなかっただろう。でも、相手が翠なら何を悩む必要もない。
「まだ幼稚舎に通ってたころ――人の視線が苦手だったんだ」
「え……?」
 翠は目を見開くほどに驚いていた。
「どうして……って訊いてもいい?」
 すでに訊いてるし……。
 俺は笑いを噛み殺し、
「うちの人間はみんな幼稚舎から藤宮なわけだけど、周りが向けてくる視線は今とさほど変わらない。どんなに小さい子どもだろうと『藤宮の人間』として見られる。それが煩わしくて、登園を拒否したことがある」
 幼稚舎を休んだのはそれが初めてのことだった。
 物心つく前から藤の会やじーさんの誕生パーティーには出席していたが、幼すぎたこともあって、周りの視線など意識することはなかった。けれども三歳、四歳になれば人の視線を感じるようになるし、それが異質なものであることには気づく。
 不快感を覚えながら幼稚舎へ入園し、毎日の登園時、降園時に向けられる視線が覚えのあるそれで、煩わしくてどうしようもなかった。
 けど、まだ幼かった自分にはその感情を自分の中で消化することはできず、またその違和感を親に伝える術も持ってはいなかった。
 父さんや姉さんたちが家を出たあと、玄関で靴を履く時点になって俺は登園を拒否した。
 母さんは俺を宥めすかすようなことはせず、まず理由を訊いてくれた。
「幼稚園で何かいやなことでもあった? 誰かお友達とケンカしちゃった? それとも先生とかな?」
「誰ともケンカはしてない」
「じゃあ、どうして行きたくないの?」
「目が――」
「目……? 目が痛いの? それとも、ものが見えづらい?」
「目は痛くないしものはきちんと見える。気になるのは……人の、目だ」
 たったそれだけの返答で、母さんは俺が何を気にし、何を煩わしく思っているのかすべてをわかってくれた。
「そう……。じゃあ、今日はお母さんとおばあちゃまのおうちに行く? きっとおばあちゃまも喜んでくれるわ」
「……かまわない」
 そうして俺は、制服を着替えてじーさんの家へ連れて行かれ、離れの茶室でお茶の稽古をして過ごした。
 すると昼過ぎに父さんが訪ねてきて、俺は茶室に父さんとふたりきりにされたのを覚えている。
「父さん、仕事は?」
「半休をもらってきた」
「はん、きゅう……半分、休み?」
「そう。半分休みで、半休」
「どうして?」
「司が登園を拒否したと聞いたから」
「僕は病気で休んだわけじゃない。したがって、父さんが帰ってくる必要はない」
「そうだな。司の身体は病気じゃない。でも、心が風邪を引いている状態だ」
 そう言って屈むと、俺の胸に人差し指を立て、トントンと叩いて見せた。
「心の、風邪……?」
 父さんはゆっくりと頷き、
「真白さんから聞いた。人の目が気になるんだろう?」
「気になるっていうより、いやだ……。遠慮のない視線に気分が悪くなる。おまけに、聞きたくもない声まで聞こえてくるんだ」
「たとえば?」
「よくあるのは、僕を指差して、あの子は藤宮の子だから仲良くしなさいって話してる親子。それから母さんが迎えに来る前に、僕に招待状を持ってくる大人もいる。この招待状をお母さんに渡してね、って。中には僕の機嫌をとろうとする人間もいる。それに取り合わないと愛想笑いで去っていくか、子どもらしくない子どもだと文句を言う。そういうのすべてが、いやだ……」
 そう言って俯く自分に、父さんは言った。
「司の苗字は『藤宮』で、おまえの祖父は社会的に地位のある人だ」
「それは知ってる」
 父さんはひとつ頷くと、
「でも、それに司が左右される必要はないと話しただろう? 司は郵便屋さんでも伝書鳩でもないのだから、招待状を受け取る必要はない」
「……断っていいの?」
「誰がだめだと言った?」
「……言われてない」
 父さんはもうひとつ頷き、
「藤の会でもおじいさんの誕生パーティーでも、司の機嫌を取ろうとする人間はいるだろう? そのとき司はどうしてる?」
「面倒だから取り合わない」
「なら、幼稚舎でもそうすればいい」
「……いいの?」
「司は何を危惧している?」
「世間体って大事じゃないの?」
「場合によっては必要だ。でも司はまだ四歳だからな。そんなものは気にしなくていい。傍若無人に振舞ってやれ」
「わかった……。でも、何を言ってくることがなくなってもあの視線はうるさい」
「そこで提案なんだが、司はメガネは嫌いか?」
「メガネ……?」
「これだ」
 父さんは自分のメガネを外し、俺に手渡した。
「嫌いじゃない。でも、僕は両目とも二・〇あるからメガネをかける必要はない」
「父さんもそこまで視力は悪くない」
「ならどうしてかけてるの?」
「そうだな……父さんの小さいころの話をしようか」
 そう言うと、父さんは珍しく足を崩して座り、胡坐をかいたところへ俺を座らせ昔話を始めたのだ。
 父さんの小学生のころの話を聞くのは初めてで、両親を失ったという話を聞くのも初めてで、何もかもが衝撃的だったのを覚えている。
 両親を失った父さんが周りから向けられたのは哀れみの目。その視線に耐え切れず自分の殻に篭りそうになったとき、父さんの祖父母がメガネを勧めてくれたらしい。
「父さんは、このレンズ一枚にずいぶん救われた」
 そう言って、サイズの合わないメガネを耳にかけられたとき、確かにシールドを得た気がした。
 その当時から「子供だまし」が通用しない子どもと言われていたが、このときの俺はとても純粋に父さんの話を真に受けた。
「シールド……」
「そう……外と自分を遮断してくれるもの」
 俺は何度もかけては外しを繰り返し、たった数ミリのレンズを食い入るように眺め、
「……これ、欲しい……」
「じゃ、昼食を食べたあと、メガネショップへ行こう。そしたら、明日からは登園すると約束できるか?」
「……する。でも、本当に僕のしたいようにしていいの?」
「ああ、かまわない。ただし、自分がしたことはすべて自分に返ってくる。そのことだけは肝に銘じておくように」
「わかった……」
「じゃ、ご飯を食べに行こう」
 そう言って茶室をあとにしたのだ。

 掻い摘んで話すと、翠は適当なところで合いの手を入れてくれる。
 そして今は、「メガネをかけてみてどうだった?」と俺の顔を覗き込んでいる。
 以前一緒にバスへ乗ったときは、ずっと窓の外に意識を持っていかれていたのに、今翠の目に映っているのは自分のみ。それがなんだか嬉しくて、自分の表情が緩むのを感じた。
「単なるプラスチック一枚なんだけど、防御壁ができた気分ってわかる?」
 翠は難しそうな顔で首を傾げ、
「正直に答えるなら、あまりよくわからない。でも、そういうものが必要なほど追い込まれていたことはなんとなく想像できる」
 とても翠らしい返答に笑みが漏れた。
「たぶん、翠の意見が正しい。たった一枚、透明なガラスの隔たりで、何を遮断できるわけじゃないと思う。でも、小さかった俺にはものすごく画期的なアイテムに思えた」
「……じゃ、そのときからかけてるの?」
「そう。その日のうちに父さんがメガネショップに連れて行ってくれて、子どもようの伊達メガネを買ってくれた。……たぶん、今ならもうメガネなんてかける必要はないんだけど――」
 そうとわかっていても、メガネを外すには至っていない。
「ずっとかけていたから外すきっかけがない?」
「それもあるけど――……たぶん、翠のスマホと同じ」
「え……?」
「柄じゃないけど、お護りみたいな感じっていうか……ないと落ち着かないものっていうか……」
 それでも弓を持つときには外すことができるのだから、やっぱり重要性はないのかもしれないけれど。
「じゃあ、もうひとつ目がねが増えても迷惑じゃない?」
 迷惑……? あ――
「俺、別に迷惑とは言ってないんだけど?」
 あ……この言い方が悪いのか。
 不意に、「自分の行いは自分に返ってくる」という父さんの言葉を思い出し、奥歯をかみ締める羽目になる。
「じゃ、メガネをプレゼントしてもいい?」
「問題ない」
 翠はふわっとした笑顔になり、「よかった」と口にした。
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