光のもとでⅡ+

Side 司 02話

いつものように五時に目が覚めシャワーを浴びて朝食を摂ったあと、用意していたスーツに着替えてリビングでニュースを見て過ごすも、時間を持て余している自分に気づく。
 きっと目が覚める時間はこれからも変わらないだろう。けれど、いくら早く起きたところで翠と登校するなら一時間強の時間が空白となる。もちろんその時間に情報収集をするでも本を読むでも論文を読むでもいいわけだけど、今まで身体を動かしていただけに、それに代わるものとしては少々物足りなさを感じる。
「明日からは筋トレもしくはランニングでもするかな……」
 コミュニティータワーにあるトレーニングルームを使えば天候に左右されることなく続けられる。ルームランナーでランニングをすれば、持久力を強化できるし体幹トレーニングにも役立つだろう。
 トレーニングルームはそこそこの広さがあったはず。巻藁を置くスペースがあれば言うことなしなんだけど……。
 ほかに何ができるだろうか、とパソコンを立ち上げリストを書き出していると、唐突に玄関が開き、姉さんが入ってきた。
「朝から何……」
「司……あんたは十九にもなって朝の挨拶ってものを習得していないみたいね……」
「……おはよう。で?」
「あんたの晴れ姿を見に来てやっただけよ。スーツ、似合ってるじゃない」
「スーツが似合わない人間なんてそうそういないだろ? 用が済んだなら帰れば? 姉さんだって出勤だろ」
「っ――かっわいくないっっっ!」
「かわいくてたまるか」
「そんなかわいくない弟に朗報よ」
「何……」
「あんたが欲しがってた論文、お父様の伝を伝って取り寄せた。だから、今は実家にあるはずよ。大学の帰りに寄るのね」
「ありがと……」
 そんなやり取りをしている間に七時数分前になり、俺は姉さんを追い出すついでに必要なものを持ってエントランスへ下りた。すると、数分としないうちに奥の通路から翠が顔を出す。
「いるかな?」みたいな表情で通路から顔だけを出す姿は木陰からあたりをうかがうウサギのようだし、俺を見つけた途端に笑顔になるのとかなんなの……。
 いちいちかわいくて俺が困るのなんて、本人無自覚もいいところだ。
 そんなところも平常運転――落ち着け俺……。まずは気になることをクリアさせるべき。
 翠が口を開く前にスマホの提示を試みると、翠は少し困った顔でスマホを見せてくれた。
「今日は最初にお誕生日おめでとうを言いたかったのに……」
「そんなのはあとでいい」
 スマホに表示される翠の体温は三十七度ジャスト――
 今はまだ生理前じゃないから、翠の体温にしては少し高い。夕方になったら、体温がまた上がってしまうのだろうか……。
「体調は?」
「だるいとかそういうのはないから大丈夫。たぶんあと数日もしたら下るんじゃないかな?」
 翠はまったく気にも留めておらず、楽観的に話してはエントランスを横切り始める。
「今日は始業式とホームルームが終わったら明日の入学式の準備か……」
「ツカサ、そんなに心配しなくても大丈夫。私、体調悪くないよ?」
 そうは言うけど、翠の慢性疲労症は油断するとすぐに悪化する。
「もうっ、そんな顔してるとほっぺたつねっちゃうよ?」
 そう言って、翠は俺の左頬を軽くつまんで引っ張った。
「入学式は列から外れて後方で座らせてもらうし、入学式準備に関しても問題はない。力仕事の椅子出しは男子がしてくれる。女子は入学のしおりに添える冊子作り。午後過ぎには終わる。帰宅したらツカサと合流だけど、それだってお誕生日をお祝いするだけ。今年は七倉さんにケーキをお願いしちゃったから、私はお好み焼きを作るだけよ?」
 にこりと笑う翠にゴリ押しをされ、俺は翠と揃ってエントランスを出た。
 ……さすがに発熱してる翠を抱くのは断念せざるを得ないか――

 他愛のない話をしながら公道を進み学園敷地内に入ると、
「春らしい陽気ね?」
「あぁ……」
 健常者からしてみればいい季節だけど、翠にとっては違う。
 春の訪れは血圧が不安定になる季節が始まったことを意味する。そして、梅雨が近づけば痛みも出てくる。
 もう、同じ校内に自分はいない。
 海斗や簾条が近くにいれば最悪の事態は免れると思うけど、それでも不安は残る。
「具合が悪くなったらすぐに保健室へ行け」と釘を刺そうとしたそのとき、
「桜って難しいお花よね? 卒業式には間に合わなくて、始業式では盛りを過ぎたところ。あと一週間もしたら散っちゃう。それでも、入学式にはかろうじてお花がついてるからまだいいのかなぁ……。花散らしの雨が降らないといいのだけど」
 翠はのんきにそんな話をしながら歩いていた。
 翠が言うように体調が悪いわけではないようだが、時にこいつはものすごく鈍感で、自分の体調が著しく悪いことにも気づいていないことがある。
 そういうことを考えれば考えるほど、
「翠……もう一度俺のスマホに――」
 翠は一歩前へ足を踏み出しては俺を振り返り、
「だーめ!」
 かわいく微笑んで見せた。
「今ですらこんなに心配性なのよ? 遠隔で数値がわかった暁には、少し血圧や脈拍が上下するだけで連絡きちゃいそう」
 そう言ってクスクス笑っては風に髪をなびかせながら前を歩く。
 その翠の腕を引き寄せ、
「状態がわからないから心配なわけで――」
「数値を知っても心配するでしょう? 今のツカサは二年前の蒼兄みたい」
 翠はまったく取り合ってくれない。
 でも――翠が言うことは強ち外れていない。
 たぶん、今の俺があの便利なアプリを手にしたところで、間違いなく昔の御園生さんになってしまう。
 翠の行動範囲を狭め、過剰な心配をしては翠の負担になる。それはこのバングルの存在意義に反する。
「ツカサ、知ってる?」
「え?」
「桜はね、咲き始めのころは中心が黄色いの。花が終わるころになると、花の中央が赤くなって、ピンク味の強いお花に見えるのよ? 私、咲き始めの桜も好きだけど、もうそろそろ散ってしまうっていうときの、この赤味の増した艶っぽい桜が大好き」
 そう言うと、垂れ下がる枝の先につく桜にそっと手を伸ばした。
 その姿を咄嗟にスマホのカメラで写真に収めると、
「あ……撮られた」
「よく撮れてると思う」
「見る?」とスマホを差し出すと、翠はディスプレイを覗き込み、
「わぁ……自然な表情で写ってる。ちょっと嬉しいかも……」
「あとで画像送る」
「ありがとう。ね、どうせならふたりで写らない?」
「桜をバックに?」
「そう。ツカサがスーツだし、大学の入学式だし、お誕生日だし」
 翠はどうでもいいようなことをあれこれ並べてかばんの中から何かを取り出す。
「じゃんっ! 自撮り棒!」
「ジドリボウ?」
「自分を撮る棒、で自撮り棒。先日、カメラのリモコンを買うのと一緒に買っていたの。これがあったら一眼レフと三脚がなくても一緒に写真が撮れるでしょう?」
 そう言うと、翠はスマホを棒にセットして見せた。
「シャッターボタンは?」
「これ」
 翠は棒の一部を指差して見せる。
「これね、リモコンになっていて、取り外しも可能なのだけど、スマホとはブルートゥースを介した無線シャッターになっているの」
「へぇ……」
 機械ものに疎い割に使い方はしっかりマスターしている。これはおそらく唯さんあたりに使い方をレクチャーされてきたのだろう。
 そんなことを思いながら、
「撮るとしたらこのアングルかな……? あ、でも弓が見切れちゃうね?」
「いや、弓は全部入れる必要ないだろ?」
「そっか……」
 俺たちは、決して人通りが少ないとは言えない桜並木の中ほどで、ふたり寄り添って写真を撮った。
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