光のもとでⅡ+

Side 司 06話

飲み物を持って戻ってきた翠は定位置に座り、手を合わせて「いただきます」と口にする。
 翠は目の前に並ぶ一口サイズのオードブルを見て、「どれから食べようかな」と目を輝かせ、チーズにトマトソースがかけられたバケットを手にとっては口へ運び、おいしそうに頬を緩めた。そんなことを何度も繰り返しては、寝室から持ってきた本をちらちらと気にする。
「弓道の何がそんなに気になる?」
 何気なくたずねてみると、翠は少し恥ずかしそうにこちらを見て、
「あのね、ツカサが弓道をしていなかったら、たぶん興味を持たなかったと思うの」
 ま、そういう興味の持ち方が悪いとは思わない。でも、翠は何か別の意味で言っている気がして、どんな言葉が続くのか、と待っていた。すると、
「あのね、ツカサの礼が好き。それから、射法八節の動作が何かの作法みたいで、一連の動作全部が好きなの。でも、ほかの人の射法八節を見てもなんとも思わなかったから、やっぱりツカサの所作が好きなのだと思う」
「俺がしているのが好き」とかどんな殺し文句だ……。
 しかも言ってる本人は、はにかみながら話しているくせして相手に与える影響など無自覚極まりないし。
 でも……ほかの人間の射法八節とはどいうことなのか……。
 あぁ……インハイやインハイ予選のときにほかの人間の射を見たからそれと比較している……?
 そんなことを考えていると、翠の口から思いもしない言葉が飛び出した。
「弓道部、学期始めに『矢渡し』なんて儀式があるのね?」
 なんでそんなことを翠が知っている……?
 ……考えるまでもない。射手である秋兄から連絡があったか何かだろう。
「今朝、秋斗さんからメールが届いて、『射手を務めるからちょっと見に来ない?』って」
 やっぱり……。
「そんなに時間はかからないって書いてあったから、桃華さんと紫苑ちゃんの了承を得て、少しだけ弓道場にお邪魔したの。そしたらすごい人でびっくりしちゃった。毎年秋斗さんが射手を務めているの? それって結構有名な話なのかな?」
「……さあね」
「正装した秋斗さんが肌脱ぎしたら、その瞬間にギャラリーの女の子たちがキャーキャー騒ぎ始めてすごかったのよ?」
「ふーん……」
「秋斗さんが弓を引くところは初めて見たのだけど、所作がツカサとそっくりなのね? 秋斗さんにも同じことを言ったら、ツカサはずっと自分の射を見て育ったし、同じ指導者に稽古してもらってたからだろう、って」
「それはあるかもね」
 翠は少し間を置いてから、堰を切ったように話し出す。
「私、ツカサの射法八節を見るのが好きなのだけど、とくにね、引き分け、会、離れの流れは息を止めて見入っちゃうほど好き! 弓を放つときの音も、最後の残心も、余韻があっていいよね? 矢を放ったときに揺れるツカサの髪の毛も好き。それから、弓を大切に扱うところとか。道具を大切に扱うものは、楽器でも弓道でもなんでも好きなのかもしれない」
 俺はなんて単純な人間なんだろう。
 翠の口から秋兄の話題が出て、あきらかに負の感情に囚われていたのに、目をキラキラと輝かせ、話し出したら止まらない翠を見ていたら、秋兄のことなどどうでもよくなってしまった。
 今はにこにこと笑って俺のことを話している翠がかわいくて仕方がない。
 しかも、「俺の射が好き」とかどんな殺し文句だ。
 口の中のものを飲み込んだ翠を押し倒し、強引に口づける。と、
「どうしたの?」
 くりっとしたびっくり眼にたずねられる。
「そんなに好き好き連呼されたら押し倒したくもなるだろ」
「えぇと……ごめんなさい?」
「別に謝る必要はないけど……」
「……ご飯、食べてもいい?」
 なんとも間抜けな質問がかわいすぎるし、俺に襲われることなど微塵も考えていない翠を恨めしくも思う。
 でも、翠をこれ以上痩せさせていいわけがない。本人に食べる意思があるのなら、思う存分食べさせるべき……。
 俺は早々に翠を引き起こしてやることにした。
 そのときにふわりと香ったのはドラッグストアで買ったコロンの香り。
 香水は香りが強いから学校へはつけていかれないと言っていたけれど、春休み中もずっとコロンばかりつけていた。
「正直に言ってほしいんだけど……」
「ん?」
「やっぱり、あの香水は好きじゃなかった?」
「っ……違うよっ!? 好き、好きなんだけど――」
「けど?」
「やっぱり私には少し大人っぽい香りに思えて……。だから、あの香りが似合う歳になるまで待ってもらえる? あの香りが似合うような女性になるから、だからそれまで……」
「それって何歳くらいを指してるの?」
「……二十代半ば……二十五歳くらい、かな? ……だめ?」
 懇願するような瞳に、俺はひとつ頷いた。
 俺の中で当たり前のように想像できる六年後の未来が、翠の中にもきちんと構築されているのかと思うと嬉しくて。
「じゃ、翠の二十五の誕生日につけてもらえるのを楽しみにしてる」
「うんっ!」

 一時間かけて翠の昼食が終わると、新たにハーブティーを淹れなおして、先日買ってきたメガネが入った手提げ袋を改めて渡される。
 中身が何かわかっていて開けるのは不思議な気分だけど、俺が新しいメガネをかけるのを翠が楽しみにしているようだから、深緑のフレームのメガネにかけ替える。と、翠は満足そうに頷いた。
「やっぱり似合う」
「こっちもかける?」
 ブルーライトカットメガネを手に取って見せると、翠は嬉しそうに頷いた。
 メガネを替えると、
「やっぱりチェック模様かわいい! ネイビーに赤っていうところがポイントよね」
 翠は右から左から、とテンプルを見ては嬉しそうに笑った。
 なんだこれ……。プレゼントをもらったのは俺なのに、翠の喜ぶ顔を見られて俺のほうが得した気分なんだけど……。
「翠のメガネ、いつ渡す?」
「え? 誕生日でいいよ?」
 その前にどこかへ出かけることになったら、せっかくのドライビングメガネが無駄になりはしないだろうか……。それなら――
「どこかへ遠出する際に渡す。せっかく買ってあるのに、誕生日まで待つ必要もないだろ?」
「誕生日プレゼントなのに?」
「誕生日は誕生日で絵をプレゼントするし、その日にこだわる必要はないと思う。どうせまた誕生日当日は試験直前で会食の会期中だろ? ふたりで落ち着いて祝えるのは試験後になる」
 翠は「それもそうね?」とあっさり了承した。
「ね、写真撮ってもいい? 蒼兄と唯兄にツカサにメガネをプレゼントするって話したら『見たい』って!」
 嬉しそうに話しては、次の瞬間にむっとした顔になる。
「すごくいやそうな顔……」
 あぁ、俺の表情のせいか……。
「次に唯さんと会ったらどうでもいい感想を言われたり、変にからかわれる気がしてそれが億劫だなと思っただけ」
「じゃ、メガネ替えたことで唯兄がからかわないようにちゃんと釘刺すから」
「なんでそんなに乗り気なの?」
「……ただ、ツカサの写真が欲しいだけだから?」
「それなら、翠もメガネかけて一緒に写るなら引き受けなくもない」
 口端を上げて挑発すると、
「だってさっき、ドライブに行くときに渡すって――」
「気が変わった。さ、どうする……?」
「むぅ……わかった。でも、今日は三脚持ってきてないし……」
「今朝の自撮り棒は?」
「あっ!」
 翠は思い出したようにバッグから自撮り棒を取り出しすぐさまスマホをセットした。

 四時になると翠はキッチンに立ちお好み焼きの準備を始める。とは言っても、本当に作り方はシンプルで、ボウルに作っておいた生地に切った材料その他諸々を入れていくだけらしい。
「ツカサにひとつやってほしいことがあるのだけど、お願いできる?」
「何?」
「私、山芋を触るとかぶれちゃうから、山芋の皮を剥くのと下ろすのお願いしてもいい?」
「問題ない」
 俺はキャベツを切る翠の隣で山芋の皮向きを始めた。
 山芋を摩り下ろし終わると、
「これ、生地に混ぜればいいの?」
「うん、お願い!」
 翠はひたすらキャベツを切っている。
「そんなに使うの?」
「……えぇと、ツカサは何枚食べられそう?」
「二枚くらい? 翠は?」
「私は一枚。でも、お店で作ってもらったものよりも一回りは大きいのを作るよ。たぶん、四枚から五枚焼けるから、あまったらラップに包んで冷凍しておけば、いつでも解凍して食べられるよ」
「助かる……」
「あっ!」
 突然翠が大声を上げたのでびっくりして翠を見ると、翠はキッチンカウンターの向こう――ベランダから見える空を見ていた。
「あぁ、夕焼け?」
「ツカサっ、屋上行ってもいいっ!?」
「いいけど……」
 翠は手を洗うといそいそと玄関へ靴を取りに行き、カメラを持ってリビングから出て行った。
 そのあとを追うと、翠は後ろに俺がいることをまるで気にせず螺旋階段を上がっていく。
 ……そんな短いスカートで階段を上がるときは、背後の人間のことを少しくらい気にかけるとか
――考えられないか……。
 普段はこんなに短いスカートをはくことなどないのだから、いつもの調子で階段を上っているに違いない。
 項垂れたい気分と説教したい気持ちの狭間にいながらも、若干の興味はあって、確信犯で上を向く。
「アレ……スカートじゃなかったのか?」
 てっきりスカートだと思っていたそれは、ショートパンツのような構造になっていた。
「ホント、唯さんぶっ殺したい……」
 俺はぼそぼそ呪詛を呟きながら階段を上がった。
 屋上では、夕陽へ向けたカメラのシャッターボタンを翠が何度も押していた。
 翠の隣に並ぶと、
「夕陽、きれいだね……」
「あぁ……」
「なんか、この時間の光が飽和している感じを見ると、いつも同じことを思うの」
「何を?」
「この光に包まれたら、街も人も、人の想いも何もかもが溶けてなくなっちゃうんじゃないか、って……」
「そんなわけないだろ」
「そうなんだけど……。でもね、写真を撮る人たちの間では、夕陽に包まれるこの時間を『マジックアワー』なんて呼ぶくらい、奇跡的に美しい写真が撮れる時間とも言われているのよ?」
「あぁ、それでカメラ?」
「うん。幸倉の家にいたときは、毎日この時間に三階の仕事部屋から写真を撮るのが日課だったのだけど、このマンションに来てからはそういうの全然してなくて、でも、受験勉強に追われていても何をしていても、自分が自分らしくいられる場所というか、時間というか、そういうのは大切にしていきたくて――」
 翠のこういう「感覚」っぽい話を聞くのが好きだ。
 翠が感じているものを言葉に変換して教えてもらえることが、嬉しく思える。そして、その大切にしたいことを守ってやりたいとも思う。
「言うの忘れてたけど、この部屋の指紋認証キーに翠の指紋も追加してあるから」
「え……?」
「これからは、俺がいてもいなくても、いつでも来てくれてかまわない」
「……写真、撮りに来ていいの?」
「かまわない」
「……嬉しい。すごく、嬉しい。ありがとう」
 そう言うと、翠はほんの少し涙を滲ませて笑った。
 その笑顔がひどく鮮麗に見えたのは、マジックアワーの奇跡だったのかもしれない――
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