光のもとでⅡ+

Side 翠葉 09話

 ハーブティーを淹れてリビングへ行くと、目に付く場所に時計がないことに気づく。これもきっと、真白さんと涼先生の決め事みたいなものなのだろう。
 でも、今何時ごろだろう……?
 陽だまり荘を出たのが七時半。それから星見荘までゆっくり歩いてきてボートに乗って――九時を過ぎくらいかな……?
 スマホの画面を表示させると、九時二十分と教えてくれる。
「時間?」
「うん。この部屋、時計もないみたいだから……」
 ツカサは部屋を見回してから腕時計に視線を落とす。と、
「九時半前――でも、それがどうかした?」
 どうか――どうか、はしない。でも――
「うち、門限が九時でしょう? だから、マンション内じゃないのにこんな時間に一緒にいるのがちょっと不思議な気分で……」
「旅行ってそういうものだろ?」
「そうだよね。そうなんだけどね……」
 部屋はリラックスできるシンプルな内装のため、他人の家にいるという感じはあまりしない。飲んでいるハーブティーも馴染みあるものだ。なのに、「旅行」というだけでものすごく特別な気がするし、このあとのことに緊張もする。
 四月に初めてエッチをしてから、何度かそういった行為もしてきたけれど、未だ緊張はするし、「慣れた」という感覚からは程遠い。
 もっと言うなら、このあとのことを考えてしまっている自分が恥ずかしくて、それだけで赤面してしまいそうなのだ。
 そんな空気を察したのか、隣に座っていたツカサに右手を掴まれた。
「いきなり襲ったりしないから、そんな緊張しないでくれると嬉しいんだけど……」
「っ……!?」
「顔に出てる」
 ツカサは笑いながら話してくれたけど、明らかに「呆れ」が混じる笑いだった。
「翠、こっちに」
 ツカサは私の右手を優しく引き寄せ、私は促されるままにツカサへ身を預けた。
 ツカサの腕にすっぽりと収まって、ツカサの胸に額をくっつけてすう、と息を吸い込む。
 ほんのりと香るメンソールと汗が混じる匂いは、不思議と安らぎを与えてくれる。
「性行為、まだ怖い?」
「……恐怖心はなくなったと思う」
「じゃ、なんでそんなに緊張する?」
「……まだ、慣れないから……かな」
「じゃ、慣れるまで繰り返そう」
 そう言ってはおかしそうに笑った。
 その笑いには場を和ませる効力があって、気づけば私も表情が和らいでいた。
「俺が触れることは?」
「好き……。こうやって抱きしめられるだけでもほっとするのだけど、裸で抱き合うのはそれ以上の安心感を得られる気がして」
 こんな話にも多少は免疫ができた。でも、まだ恥ずかしさは伴う。
 だいたいにして、どうして私ばかりが答えなくてはいけないのか……。
 そんな思いがムクムクと湧いてきたけれど、そんな思いはすぐに掻き消える。
 これはツカサの優しさなのだ。
 何事にも臆病で、不安がる私が今どんな気持ちでいるのか――それをきちんと確認し、把握して、私に合わせて事を進めてくれる。
 とても慎重な人で、私を大切にしてくれる人だからこその確認作業。
 でも、私だって知りたい。ツカサがどう思っているのか……。
「ツカサは……?」
「俺……?」
「ん」
「俺は……こうやって翠を抱きしめられるだけで幸せだし、ほっとする。一年のときと比べたら少しは肉がついたとか――」
 その言葉にツカサから離れ、手近な場所にあったクッションを押し付けた。
「ひどいっ!」
「仕方ないだろ? 入院前のガリガリの翠を知ってるんだから。抱くたびに肉付きチェックするのは必須事項だ」
 真顔で答えるからもっとひどい……。
 でもそれは、私の身体を、健康を気にかけてくれているということでもあって――
「ひどいけど、好き……」
「それはよかった」
 そう言うと、顔が近づき頬にキスをされた。
「翠を抱くと、翠が俺の腕の中にいることを実感できて、翠が俺に好意を寄せてくれていることが実感できて、これ以上ない幸せを感じられる。願わくば、その幸せを感じたいわけだけど……」
 熱っぽい目に見つめられ、
「お風呂、入ってから……」
 ツカサは一度洗面所の方を見てから、
「バスルーム、結構広かったよな?」
「え? うん。一般家庭のそれよりはずいぶん広いつくりだったと思うけど……?」
 あれは間違いなく特注のバスタブだろう。
「……一緒に入る?」
 ……ん? 一緒? え? 何が……?
「照明の調節もできるし、脱衣所でウォーターキャンドルも見つけた」
 ……これ、間違いなく一緒にお風呂に入ろう、って言ってるよね……?
 でも、一緒にって……? 一緒にお風呂に入るって……?
 そもそも、誰かと一緒にお風呂に入るのなんて小学生のころ以来だ。でも、家族と一緒に入るのとはわけが違う。
 照明を落としたお風呂にツカサとふたり……。
 お風呂に浸かりながら星空を眺めるのはさぞかしロマンチックだろう。リラックス効果も望めそうだ。それに加えてウォーターキャンドル……。
 真白さんが用意したものなら、間違いなくアロマの香りもセットで楽しめる気がする。
 でも――
「えぇと……ひとりで入っても照明を落として星空は楽しめると思うし、ウォーターキャンドルを楽しむこともできると思うの」
 割と冷静に、淡々と返せたと思った。でも――
「それ、ひとりで楽しむのとふたりで楽しむの、どっちが幸せを分かち合えると思う?」
 今、退路を断たれた音がした。
 これ、崖っぷちに追い詰められた動物そのものなんじゃ――
「どっち?」
 こんなときばかり笑顔を駆使してくるツカサを恨めしく思う。
「……うぅぅ……じゃぁ、一緒に……はい、る……?」
 消え入りそうな声でたずねると、ツカサはにこりと笑って席を立ち、早速お風呂の準備に向かった。
 バスルームから名前を呼ばれ、恐る恐る洗面所に立ち入る。
 ひょっこりと顔だけを覗かせると、
「お湯の温度何度だっけ?」
「38度から40度……」
「……ま、リラックスするには適温だな」
 そう言うと、ツカサは設定温度を変えながらお湯張りボタンを押す。
「脱衣所の棚にバスグッズがある。翠の好きなものを選べばいい」
 私は言われるがまま、脱衣所の棚を物色する。
 棚の幅は二メートルほどあり、四列複数段にセッティングされていた。
 一番右側にバスタオルとフェイスタオル、バスマットなどがきれいに収納されており、その左隣の列には棚がない代わりにステンレスのパイプが渡されていて、LサイズとMサイズのバスローブが四着ずつかけられていた。
 その隣の列がボディーソープやシャンプー、トリートメント、洗顔フォーム、ウォーターキャンドル、複数種類の入浴剤。
 一番左は脱衣カゴと思しきものが置かれている。
 入浴剤はアロマオイルのほかにバスバブルやバスフィズ、バスソルトと多岐にわたる。香りはローズと柑橘系、ミント、ラベンダーの四種類が多い。
 私はそれぞれの説明を読み、バスバブルを手に取った。
 バスバブルを入れるとモコモコの泡が立つため、ウォーターキャンドルは使えない。その代わり、モコモコの泡は未だ肉付きの悪い身体を隠してくれるだろう。
 さらに、「星を見る」を口実に照明を落とせば視覚はオフにできるはず……。
 香りは何がいいだろう……?
「ツカサ、香りで苦手なものってある?」
「何があるの」
「柑橘系とミント、ローズ、ラベンダー」
「ラベンダーは翠の血圧を下げるから却下。ほかならなんでもいい」
「了解」
 柑橘系、ミント、ローズ……。
 今の気温からすると、ミントを入れて爽やかさを演出してしまったら、ものすごく寒い気がしてしまう。それに、夜に入るには目が冴えてしまいそうだ。
 残るは柑橘系とローズ――バラの香りは大好きだけど、ロマンチックになりすぎてもちょっと……。
「柑橘系……柑橘系一択……」
 私はオレンジ色のボトルを手に取り、説明書に書かれたとおり、ボトル一本をバスタブへ注いだ。
 コポコポと音を発する容器を見つめていると、
「それ何?」
「バスバブル。通常のお湯張り機能だと泡立たないから、こっちからに変えてもいい?」
 バスタブのすぐ脇にあるコックを指差すと、
「いいけど……それだとウォーターキャンドル使えないんじゃない?」
「灯りは却下で……」
「……真っ暗な中で身体や頭洗うの?」
 それはそれでどうかと思う。
 照明は数段階に分けて明るさを調節できるものだけど、真っ暗一歩手前の暗さでも、目が慣れてしまえば姿形を認識できてしまうだろう。それなら、照明を点けた状態で自分だけが入り、髪の毛と身体を洗い終わってからツカサを呼ぶ、という手もあるけれど、それはいくらなんても往生際が悪すぎるだろうか……。
「翠、ひとつ譲歩して」
「え?」
「キッチンからロックグラスを持ってくる」
「ロックグラス……?」
「それに水を張って、ひとつだけウォーターキャンドルを点ける」
「…………呑みましょう」
 私たちのやり取りはいつだってこんな感じで、日々攻防を繰り返している気がしなくもない。
 ほかのカップルはどうなんだろう……?
 飛鳥ちゃんと海斗くんを見てみても、付き合う前とあまり変わらない気がするけれど、ふたりきりのときはもっとらぶらぶで、甘い会話をするのかな?
 でも、らぶらぶで甘い会話ってどんな……?
 甘すぎる言葉を口にする秋斗さんならいくらでも想像ができるけど、ツカサで想像するのは難しすぎる。さらには秋斗さんが口にするような言葉を耳にしようものなら、慣れなさすぎて縮こまってしまう自信が無限にある……。
 今以上仲良くなれるのも、ツカサに近づけるのも嬉しい。関係が一歩進むことにも恐れは抱かなくなった。でも、まだまだわからないことだらけだし、慣れないことだらけだ。
 けど、これから先ずっと一緒にいられるのなら、今よりももっとたくさんのツカサを知ることができるだろうか。
「そうだったらいいな……」
 バスタブの番人をしているツカサを残し、私はお風呂の用意をしに寝室へ向かった。
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