井戸の中




 ーーその日の夕方。

 赤く腫れ上がった頬をさする俺は、裏庭で一人、悔しさに涙を流した。

 靴を無くしたと言った俺に、酔った父親が怒って殴ったのだ。
 

(俺のせいじゃ、ないのに……っ)


 あまりの悔しさに、側にあった大きな石を掴むと呆然と見つめる。


(これを、思いっきり投げたら……。少しは、悔しさも晴れるかな……)


「ニャア……」


 そんな事を考えていると、いつの間に来たのか、黒猫が俺の目の前で小さく鳴いた。

 痩せ細った身体を見ると、きっと野良猫なのだろう。首輪もしていない。
 放心した頭でそんな事を教えているとーー

 気付けば、右手に持った石を何度も大きく振り上げていた。

 右手に伝わる、鈍い衝撃。

 ーーその何度目かの衝撃で、ハッと我に返った俺は、目の前の猫を見た。


 ーーー!!!


 ピクピクと手足を痙攣させて、顔面から血を流す猫はーーもはや、その原形すらとどめていない。


「っ……ごめんっ。……ごめん、なさい……っ」


 涙を流して謝りながら、震える手でそっと猫に触れてみる。
 その身体は、とても暖かくて……。
 
 ーーだけど、鼓動を感じる事はできなかった。


(……っ。どう、しよう……っ。どうしよう……っ)


 自分のしでかした事態に恐怖すると、ガタガタと震え始めた身体でそっと猫を抱える。


(っ……か、隠さなきゃ……。でも……どこに……? ……あっ!)


 井戸の中で消えた靴のことを思い出すと、そのまま猫を抱えて歩き始める。


(……もしかしたらーー)


 そんな思いを胸に井戸の前までやってくると、コクリと小さく息を飲む。

 抱えていた猫を持ち上げると、俺はギュッと固く目を閉じたーー

 そのまま、井戸の上でパッと手を離すと、聞こえてくるはずの音に集中する。
 けれど、いつまで経っても聞こえてこないその音に、閉じていた瞼をゆっくりと開くと、恐る恐る井戸の中を覗いてみる。


「……猫が……いな、い」


 確かに、井戸の中へと投げ捨てたはずの猫の死体。

 それは、やはり先程の靴と同様に、井戸の中で忽然と姿を消したのだったーー。


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